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山形県村山市の城館索引へ戻る  宝鏡寺館宝鏡寺館宝鏡寺館より最上川方面
1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/05/13のブログ 大久保城
所在地
 山形県村山市
歴史、人物、伝承

最上氏一族大窪氏の居館か
 最上川支流の千座川と田村川に南北を挟まれた河岸段丘の東端の宝鏡寺境内に所在し、城館名の表記については「参考・引用資料」が示すように様々な呼称がなされている。その経緯については「最上氏系図」(宝幢寺所蔵)に記されているように、斯波兼頼曽孫の最上満直三男である大窪満頼(大久保氏とも)が応永2年(1395)に築城したものと推定されている。しかし直後の南朝勢力の衰退によりその存在意義も薄れ、文明年間(1469−1486)はに宝鏡寺が建立されその城館としての役割を終えたものと考えられている。
 また約500mほど西方には「最上義光分限帳」(東大資料編纂所所蔵本)記された大久保主馬を城主とした戦国期から近世初頭の大久保城が所在している。
 以上については、「日本城郭体系 3」「山形県中世城館遺跡調査報告書」「村山市史」などより引用した。

確認可能な遺構
 郭、空堀
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月13日 17時35分から17時50分
訪城の記録 記念撮影

 大久保城の古楯とも ( 2010/11/30 記述 )
 最上川の左岸の河岸段丘辺縁部に所在する単郭の居館と考えられています。遺構に関連しそうな地形は、現在はビニールハウスの畑として利用されている西側の空堀跡、および東、北の二方に残る比高差4mほどの切岸状の崖線ですが、この崖線部分については多分に自然地形を利用したものであろうと考えられます。また、かつては南側山門付近に幅約10mほどの空堀跡も所在していたということですが、現状の地形から観察した限りでは、最早その存在を確認することが難しい状況となっているように思われました。
 この山形遠征の2日目は天候の方は前日の予報が全く外れて安定傾向になりました。しかし地理不案内の地ゆえに、即座に平地モードから山城への速やかな切替は至難です。加えて強めの北西の風が吹きまくり、その急激な気温低下により腹具合に支障が発生。このため国道13号線の「道の駅むらやま」を中心に移動するという恰も綱渡りのような城館探訪となりました。なおこの宝鏡寺館の探訪時点でほぼ日没を迎えることとなり、この後は寒河江市の図書館まで赴き、前日に依頼したコピーを受領して本日の予定を終了しました。

宝鏡寺館 ⇒ 画像クリックで東方最上川沿いの低地画像へ
宝鏡寺楯北西角付近
( 2009/05/13 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)→「古大久保館」として記載されている。
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)→最上氏一族の「大窪館」として記載されているが、この古楯について記述したものか、あるいは戦国期の大久保城について記述したものかは明確ではない。
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)→「大窪城」あるいは「大久保古城」として記載されている。
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)→「宝鏡寺楯」として詳細な縄張図とともに掲載されている。

歴史・郷土史関係
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)→宝鏡寺に所在する遺構として記載されている。
「村山市史」(1991/村山市)→大久保城に関連した古楯として性格づけられ、かつての遺構状況についての記述に詳しいがその名称については特記されていない。

・2010/11/30 HPアップ
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