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関連ページへのリンク  2009/05/13のブログ 土生田館 高館山
所在地
 山形県村山市大字本飯田字館
歴史、人物、伝承

国人飯田氏の本拠地
 本飯田集落の東側の丘陵地帯に所在し南北約300m、東西約200mの城域を有し、「山形県史蹟名勝天然記念物調査報告第3号」(1928年)によれば、天正年間に最上義光の家臣となった飯田播磨守(天童氏を盟主とした元最上八楯の一人)が築城し2千石を領したという。また「最上義光分限帳」によれば飯田城を7千石で知行していたともいう。楯が所在する西側斜面から麓にかけて家臣団の居館群が存在していたものと推定されている。
 飯田播磨守はその後山形の飯田へと移ったが、慶長5年(1600)の出羽合戦で最上方として畑谷城をめぐる攻防で討死を遂げたという。

確認可能な遺構
 堀切、郭、切岸、小口ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月13日 14時40分から14時45分
訪城の記録 記念撮影

 登り口の確保のみ ( 2010/10/26 記述 )
 山形遠征自体の目的の第一義は先ず土地勘を醸成することにあったという事情を背景に、この日は唯一の晴天であったにも拘らず、「資料不足+最大比高差80m前後+登り口皆目不明+異常低温+北西の強風+体調不良+気力喪失⇒麓からの遠望」という図式に基づく探訪が過半を占めることとなりました。
 体調だけでも万全であれば比高差は僅かなので手当たり次第に直登することもも可能な地形だったのですが、早春の時期を逸した低山ゆえに地表観察に不向きなことは寒河江市の山城で自明の理のようでした。登り口は恐らく尾根筋北端部に所在する羽黒山神社または下記の画像のあたりと目星をつけることができたというだけでも可とすべき極めて追い詰められた状態でもありました。

飯田楯の全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
飯田楯の全景(西側の麓より)
( 2009/05/13 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)
 →公刊されている書籍のなかでは、比較的入手しやすく縄張図も新しく且つ詳細に記されている。
「中世出羽の領主と城館」(伊藤 清郎ほか著/2002/高志書院)
「出羽諸城の研究」(沼舘 愛三 著/1980/伊古書院)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)
 →略測図の掲載があるが、表記方法に関する分かりにくさが否めない。

歴史・郷土史関係
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「村山市史」(1991/村山市)
「天童市史 上巻」(1981/天童市)
「天童市と天童古城」(2005/天童市立旧東村山郡役所資料館)
「東根市史」(1991/東根市)

史料、地誌、軍記物
「奥羽永慶軍記」(2005/無明舎出版)


・2010/10/26 HPアップ
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