凸小田島氏、東根氏、里見氏の居城 鎌倉期から南北朝期にかけては小田島氏の支配下に置かれていたが、南朝方であった同氏の退潮により、応永2年(1395)最上氏の一族天童頼高が入部して東根氏を称し7代続いたという。最上八楯(延沢氏、尾花沢氏、飯田氏、楯岡氏、長瀞氏、東根氏、成生氏、六田氏)の盟主である天童氏は、10代頼久の時に有力国人衆である延沢氏、成生氏等の離反により、天正12年(1584)10月山形城主である最上義光(もがみよしあき)の攻略によって盟主の地位を奪われたが、天童氏は伊達氏を頼りその家臣となり1千石を封じられ準一家として命脈を保った。 この天童合戦では東根城主東根頼景は天童城主天童頼久の弟であったため天童氏側に与したものの、家臣である里見氏の叛乱などに遭い東根城も落城する憂き目にあった。なお東根氏は別に坂本氏を称したともいう。その後「最上分限帳」などによれば、後継の一族である里見氏が東根領1万2千石(1万7千石とも)を知行したが、元和8年(1622)最上氏の家督相続争いに伴い改易され事実上廃城となり、寛文元年(1661)には破却されたといわれている。別名を小田島城ともいう。 以後山形藩領、白河藩領の代官陣屋時代を経て、寛保2年(1742)からは幕府領となり漆山代官陣屋の出張陣屋が置かれた。代官陣屋は東根城跡の二の丸、現東根小学校校庭の南側付近に置かれたものと推定されており、安政2年(1855)には松前藩の代官陣屋に転じて幕末までその支配を継続した。
( 2011/6/6 記述 ) 始めに外郭とされる土塁跡の見学から。ここもサンランボ畑の中で長さ20m前後の低土塁が現存しいました。この場所を見学する人は少ないようで、ある意味ではかなりの挙動不審者の範疇なのかとも。 周辺を2週してどうにか山王神社周辺の高さ5mに及ぶ土塁と水堀跡を探し出せたのは幸運でした。該当遺構の所在地は直ぐに判明していたのですが、そこまでの道筋が分からず直ぐ近所のお宅に伺ったところ分からないとの返答でした。本当にすぐそこに見えるのでありましたが、肝心のアプローチすべき道がなかなか見当たらず。 最終的には当初あたりをつけた参道らしい石を敷いた細道(民家と民家の間の私道のようなごく細い道)が正解でした。やはりここでもサクランボ畑の端を通過していくのが正解なのでありました。 遺構らしい存在が少ない中での最も城郭遺構らしい存在。 なお腹具合の方は、ここまで本日も些か不調傾向。 城跡公園の専用駐車場と清潔な公衆トイレの存在は涙が出るほどに有難い存在でした。
・いつもガイド の案内図です