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1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/5/14のブログ
所在地
 山形県東根市東根字薬師山
歴史、人物、伝承

東根城の物見砦か
 最上八楯(延沢氏、尾花沢氏、飯田氏、楯岡氏、長瀞氏、東根氏、成生氏、六田氏)の盟主である天童氏は、10代頼久の時に有力国人衆である延沢氏、成生氏等の離反により、天正12年(1584)10月山形城主である最上義光の攻略によって盟主の地位を奪われ、その後天童氏は伊達氏を頼りその家臣となり1千石を封じられ準一家として続いた。なお、天童城の落城時期については「奥羽永慶軍記」等による天正7年(1577)説も存在するが、前説の方が有力視されている。
 天童合戦では城主東根頼景は天童城主天童頼久の弟であったため天童氏側に与したが、家臣である里見氏の叛乱などに遭い東根城も落城する憂き目にあった。その後「最上分限帳」などによれば、後継の里見氏が東根領1万2千石を知行したといわれている。
 「東根市史通史編」などによれば、東根城の詰城とする説もある。しかし主郭部分は東西約40m南北約20mの規模に過ぎず、またその規模や防御性から見る限り平城である東根城の弱点を補う物見的な役割の城郭と考えるべきであろう。

確認可能な遺構
 帯郭、土塁など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月14日 7時50分から9時00分
訪城の記録 記念撮影

( 2011/6/1 記述 )
 東根城東方の比高30mほどの丘陵です。 当初は道が無いことを想定していたのですが、神社の参道が所在するために思いのほか良好なルートです。 草の繁殖も主郭部分の地表観察には概ね支障がありませんでした。勿論それ以外の場所の観察と撮影については、木々が繁殖し予想通り困難となりました。
 城郭遺構であるかどうかは判然とはしませんが、南側からの山道沿いに3か所ほどの腰郭状地形もしています。無論神社普請などに伴うものや元来の自然地形である可能性も少なくは無くはありません。山頂部の主郭上にはさらに比高差約1mほどの一段高い楕円形の削平地が所在していましたが、宗教関係施設と見るべきでしょうか。
 また主郭北辺の下方には明らかに帯郭(幅約1間ほど)とこれに伴う切岸状地形も確認できましたが、何時ものように画像に収めると甚だ訳のわからないものとなってしまったのでありました。

山頂に所在する古峯神社の石碑
薬師山楯山頂周辺 −画像A−
( 2009/05/14 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
薬師山楯の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
腰郭状の地形のひとつ ⇒ 画像クリックで拡大します
薬師堂と薬師堂山 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 腰郭状の地形
 参道の城道を防御する構造となっている切岸を伴った腰郭状の地形であるように思われました。
凸2 薬師堂と薬師堂山
 手前の堂宇が薬師堂で、背後の裏山が薬師堂楯が所在する薬師堂山です。⇒薬師堂の由来
交通案内

・比高差約35m前後

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「東根市史通史編上巻」(1997/東根市)

・2011/6/1 HPアップ
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