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栃木県佐野市の城館索引へ戻る 興聖寺城 興聖寺城のバナー 興聖寺城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008年11月23日のブログ 小見城
所在地
 栃木県佐野市吉水町739
歴史、人物、伝承

佐野氏の有力支城
 「栃木懸誌」の記述によれば、「大字吉水にあり。安貞2年(1228)佐野太郎国綱が築城して一族である岩崎越前守義基(西佐野(殿か)という)の居城としたが、永正年間(T504−1521)左馬助重永が三好岩崎城へと移り、大永元年(1522)8月から佐野左近将監季綱の居城となった。季綱は常時在城せずその臣下である田沼、中江川、河田、天沼、清水、今宮の各氏が交代で守備した。後に山田若狭が城代として久しく居城した。」 とされている。「日本城郭大系4」「現地解説板」などの記述についても、この内容が元になっているものと思われる。
 また廃城の時期は慶長19年(1614)佐野氏改易の時期以前と推定をされている。「田沼町史第3巻」に掲載されている絵図によれば、本丸、北二の丸、南二の丸、三の丸から構成された複郭式の城郭で水堀が配されていたとされている。

確認可能な遺構
 土塁、堀跡、小口(?)
文化財指定
 1974年3月1日 佐野市指定文化財
訪城年月日
 2008年11月23日 13時50分から14時20分
訪城の記録 記念撮影

 一辺が約120m四方ほどの規模を有する土塁、堀跡による主郭を遺す佐野一族の居城とのことです。東側と北側を中心として良好な遺構が残存するものの、総体的に草木に覆われていたため土塁のラインを観察し辛い状況なのが残念でした。西辺は県道16号田沼佐野線の道路拡張などにより地形的に大きく改変を受けているように思われました。
 また堀跡は西側を除いた北側、南側、東側にある程度は残存しておりましたが宅地化等により判別が難しくなっておりました。
 「栃木懸誌」など関係資料等によれば元来は清水城とも言うようで、興聖寺が当地に移転したのは寛永12年(1635)とされていることから、清水城と呼称する方が妥当なのかも知れません。
( 2011/7/2 記述 )
興聖寺城 ⇒ 画像クリックで現地解説板の画像へ
興聖寺城
( 2008年11月23日 撮影 )
訪城アルバム
北東付近の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
北辺の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北東付近の堀跡
 方形の城跡のなかで最も城跡としての佇まいを感じさせてくれる空間でした。
凸2 北辺の土塁
 土塁の上は全体として木々に覆われており、この北辺の東側部分が最も見通しが良さそうでした。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「とちぎの古城を歩く」(2006/塙静夫/下野新聞社)
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「栃木懸誌」(船橋一也/1904年の復刻版/歴史図書社)
「校訂増補下野国誌」(1968/下野新聞社)

・2011/07/02 HPアップ
・2019/06/12 画像ズレ補正
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