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千葉県柏市の城館索引へ戻る  布瀬館北方の地形 布瀬館のバナー 布瀬館東方の地形
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/12/23のブログ 高野館
所在地
 千葉県柏市(旧沼南町)布瀬字木戸
歴史、人物、伝承

新田岩松氏の支配期も
 布瀬の地については14世紀末の「岩松氏所領注文」には、手賀村と共に布施(布瀬)村が泉治部大輔・原将監により知行されていたこと、ほぼ同時期の「岩松左馬助所領注文」にも、岩松氏家臣の二階堂山城が知行していたことが見えるが、布瀬館との具体的関連は不明とされている。
 その後15世紀半ばまでは岩松氏の所領であったことが確認されるが、戦国期の支配関係も不詳とされているらしい。(※「東葛の中世城郭」「角川地名大辞典県12」より)

確認可能な遺構
 土塁?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年4月16日 15時05分から15時35分
訪城の記録 記念撮影

 分断された台地 ( 2010/08/22 記述 )
 「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」の記述によりますと、地蔵堂の周辺の小高い台地一帯をさしていますが、城館跡としての範囲については余り明確ではないようです。地蔵堂を中心とした地域に城館地形の名残りを2、3個所ほど認めることができますが、それ以上のものではありませんでした。
 県道北側の長屋門を有する旧家の辺りには土塁の痕跡と言えなくもない地形も散見されることから、県道282号柏印西線北側にも及んでいたものと思えますが、現状の地形からその全体像の再現や城館跡の範囲を絞り込むことには無理があるようです。
 なお「中近世城館調査報告書」では「布施館」と表記していますが、同名の地名が所在していることから、現地における近世の庚申塔にも刻まれていたように「布瀬」の地名表記の方がより誤解のない表記であるとものと考えられます。

布瀬館の土塁状地形? ⇒ 画像クリックで拡大します
地蔵堂東の土塁状地形−画像A−
( 2009/12/23 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、必要に応じて現地での印象などを加味させていただきました。

布瀬館概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
布瀬館遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
布瀬館北方の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 布瀬館遠景
 民家敷地と地蔵堂の墓所となっていますが、この一帯に微高地が形成されてたことが窺われます。台地が県道により分断されていますが、画像左側の県道北方にも微高地の形跡が残ります。
凸2 布瀬館北方の地形
 県道282号柏印西線の北側の台地に遺されている地形です。現在は県道により南北に分断されていますが、かつては南側の地蔵堂一帯と同一の台地を形成していたものと考えられます。

布瀬館北方の宅地境 ⇒ 画像クリックで拡大します
地蔵堂南西の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 布瀬館北方の宅地境
 県道北側の旧家宅地辺縁部には最大1.5mほどの地面の段差を見ることができます。水田面からは高さ約18mを有する台地上ですので、少なくとも水害除けの造成などでは無さそうです。
凸4 地蔵堂南西の土塁
 地蔵堂境内の南西に遺されている土塁状の地形で、南の金山落から続く手賀沼に向けて張出した崖線上に老木とともにポツンと所在しておりました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

■史料


■その他


・2010/08/22 HPアップ
・2019/06/21 画像ズレ補正
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