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館跡と推定されている地帯の北東側に所在する八幡宮で創建時期は不詳ですが、おおむね北東の鬼門に位置しているようです。表の通りからはあまり目立たない場所にあります。
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社殿の裏側の様子で2mほどの微高地となって、手前の北側の部分には水路も流れていますが館跡との関係は分かりません。
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館山の西側に所在する菅原道真を祭神とする天神社。「新編武蔵風土記稿」によれば、慶長年間に徳川家家臣羽生城代官の大河内金兵衛久綱が羽生城の天神社を勧請したと伝えられています。
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一般に城館跡の存在を示すといわれている地名のひとつである「馬場」という名称がバス停にも付けられていました。バス路線は2系統ありますが本数は一日数本のようでした。
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徳性寺境内のサフランですが、球根が入っていた袋が置かれていたので間違いありません(^^;。地中海沿岸が原産地のアヤメ科サフラン属の多年草でクロッカスの仲間。赤くて細長い雄しべは鎮静、鎮咳、強壮効果があるとともに香料・染料としても利用されるそうです。
画像クリックで拡大します。
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館山の東側に所在する小山朝政が開基と伝わる徳性寺の山門。ここでも菊花展のようなものが開催中の模様でした。
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小山義政が再興したと伝えられている真言宗豊山派医王山徳性寺本堂。
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■8■赤城山(群馬県)
館山や徳性寺のある大越地区の北側には日本有数の大河川利根川が流れています。その堤防の上はさえぎるものも全く無く、上州名物の赤城おろしが利根川の対岸まで冷たく乾燥した強風となって吹き荒れて早くも冬の到来を告げていました。画像クリックで拡大します。
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利根川の河川敷はこの辺りでも約700mとかなりの広さとなっていました。写真でも分かるように利根川の水の色と遠くの栃木県の山並みが殆ど同じ色をしていましたが、よく考えると川面に山並みが写っているだけのことで当然といえば当然で。ともかくも、おにぎりと温かいお茶があれば1時間は眺めていたいそんな雄大な風景でありました。画像クリックで拡大します。
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高級膝用のサポーターの効用を試すべく比高差20mはあろうかと思われる利根川の堤防を真直ぐに駆け上がってみました。膝の状態とは別に息が切れて途中で2回休んで何とか到着したのが「8」「9」の写真となった次第。もちろん写真左側の道路を車で上がることはできるのですが、膝のバネの支援効果としてはまずまずのようでした。また、堤防の高さもこれだけあると風除けにもなるらしく堤防の下の部分では微風状態でした。
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おそらく山茶花(サザンカ)かと。花びらが椿のようにボタッと落ちずにハラハラとこぼれていることと晩秋という季節を考えるとたぶん間違いないと思うのですが。大越公民館の生垣にこぼれるようにして咲いていました。画像クリックで拡大します。
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やっと出会えた公民館の北側に所在する小山朝政の墓(宝篋印塔)。この周囲は銀杏の大木から銀杏が大量に落ちてその匂いの凄いこと...決して嫌いな匂いではないのですが、歩いただけで車の中の匂いが3日ほど消えず...画像クリックで解説板へ
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■13■画像クリックで拡大します。
加須市指定史跡の小山朝政(1155-1238)の墓(宝篋印塔) 1963年9月17日指定
基礎部分に貞和元年(1345年)の紀年名が刻まれているということですが、晴天にも拘らずこの場所は薄暗くしかも逆光のため分かりませんでした。
小山氏について
中世下野の豪族で下野押領司藤原秀郷の子孫とされている。藤原秀郷の9代後の太田行政の子太田正光が下野大掾となり小山荘(栃木県小山市)を本拠として小山氏を称した。その子である朝政は源頼朝に従い関東の平定、一ノ谷合戦、奥州藤原氏征服などの勲功により下野守護、播磨守護を兼ねる。
南北朝期の小山義政の時、宇都宮氏との抗争から康暦2年(1380年)鎌倉公方足利氏満の討伐により嫡流が廃絶したが、氏満の命により一族の結城氏から泰朝が小山氏を再興。その後、永享12年(1440年)の結城合戦により結城氏が没落したため、嘉吉元年(1441年)持政の時に下野守護に復職し古河公方勢力の一翼を担うものの、天正3年(1575年)秀綱の時後北条氏に服属し天正18年(1590年)の後北条氏の滅亡により小山氏も所領を失い事実上滅亡した。
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