城館跡の名称 | ||
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おすすめ評価 |
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埼玉県熊谷市三ヶ尻字黒沢2280 | |
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■伝承だけは色々と |
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なし | |
周辺の地理的特徴 |
■西側を奈良用水、東側を玉井用水に囲まれた水田地帯の中央部分で、南東1.5km付近に国の史跡指定を受けている「宮塚古墳」が所在しています。今のところ周辺には同じ三ヶ尻に所在した近世初頭と考えられる三宅屋敷を除けば平安時代中期から中世初期のいわゆる武士の館を含めて半径3km圏内には中世の城館は殆ど存在していない模様です。 |
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記録 |
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊) |
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無 | |
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2005/09/20 |
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( 2005/09/20 ) |
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記念撮影 |
上記の発掘調査報告書などによれば、この用水路の揚水ポンプなどの施設のあるフェンスで囲まれた部分が黒沢館跡ということのようですが、大変残念ながら全く面影も何もありません。 ( 2005/09/20 撮影 曇 ) |
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訪城アルバム |
■①■一応画像クリックで拡大しますけど、殆ど意味のないような...以下同様。
北西側からみた光景です。小さくポンプ小屋が見えますが、どの角度から見ても全く面影はなく... ちなみにこの黒沢館の主郭部分は約600坪ほどの広さですので、この中に籠城できる人数はどう詰め込んでも最大で百五十人が限度です。したがって数千人を超える大規模な合戦がこのかつての自然堤防上の場所で起きることは収容人員の点からみても、地形的にもてもまずありえません。恐らくは百人前後の小競り合いというあたりが妥当な所ではないかと考えられます。 なお、伝承などに登場する三ヶ尻の城とは、この黒沢館よりも寧ろ南西1.8キロメートルに所在する比高およそ50m、標高97.5メートルの観音山付近の方が守るに相応しい条件を備えているのではないかと思われますが、いかがなものでしょうか。 ■②■
古代から中世にかけての集落跡の可能性もあるらしい樋ノ上遺跡方面を望む。遠く写真に写っているのが熊谷西高校で、概ねその東側(写真に向って右側)の水田付近が樋ノ上遺跡のようです。 ■③■
館跡北西を流れる水路は全く新しく工事されたもので、写真のように勢いよく北東方向に向って流れていました。この圃場整備以前においては館跡の東側で大きく蛇行して南西から北東方向に向けて流れていたようです。熊谷市の発掘調査報告書によれば「ふるぼり」という名称が記されていて、外堀としての意味を持っていたと推定されています。 |
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