城館跡の目次 トップ頁へ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 HP雑記帳
参考資料等 リンク集 工事中
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/20の日記
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ3 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合20
所在地
埼玉県熊谷市三ヶ尻字黒沢2280
歴史と沿革

伝承だけは色々と
 「新編武蔵風土記稿」にも三ヶ尻村の項に、「陣屋跡 村の東にあり、千四百平方メートルの広さで現在は水田となっている。この場所は瓶尻太郎あるいは瓶尻十郎胤光の館跡とも云われている。また、黒沢武藏守義政というもの館跡とも云われている。また、長尾景春の乱の時に鉢形城に景春が籠城し、さらに成田の地へ出陣した際、太田道灌が古河公方の軍勢との間に布陣して両者の連携を阻んだのはこの地であるといわれている。また、成田氏の一族が武州三ヶ尻に城を築いたという伝承はこの場所ではないか」などと記されています。
 また、渡辺崋山の「訪瓺録」(写本は埼玉県指定文化財)にも「黒沢屋敷」として四方が土塁で囲まれた詳細なスケッチとともに記録され、「三ヶ尻天王縁起に北条相模守入道高時の一族久留澤武藏守平貞時と云るもの、居城の地なり」と記されているそうです。なお、発掘調査により、貞和4年(1348年)、康永3年(1344年)、永享10年(1438年)の板碑が出土しています。
 「小田原所領役帳」では「上田豹徳軒5貫文久下瓶尻領家方」、「成田氏分限帳」では「永33貫文武州瓶尻喜市郎」との記載があります。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■西側を奈良用水、東側を玉井用水に囲まれた水田地帯の中央部分で、南東1.5km付近に国の史跡指定を受けている「宮塚古墳」が所在しています。今のところ周辺には同じ三ヶ尻に所在した近世初頭と考えられる三宅屋敷を除けば平安時代中期から中世初期のいわゆる武士の館を含めて半径3km圏内には中世の城館は殆ど存在していない模様です。
 下記の発掘調査報告書によれば、全体としては台形状で南辺に折があり西角の堀には出隅のあったことが確認されています。同様に郭内の大きさは北辺55メートル、東辺57メートル、南辺54メートルで折の部分は6メートル南へ飛び出し、西辺は39メートルと短くなっています。また堀跡は館跡を一周し幅およそ6mほど、深さ約1mであり、北側と南側にそれぞれ1か所ずつの小口のあったことも確認されています。なお、土塁跡については西側に小規模なものが確認されているだけで、発掘からでは必ずしもその全体の様子は掴めないようです。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埋蔵文化財発掘調査報告書 三尻遺跡群 黒沢館跡・樋ノ上遺跡」(1985/熊谷市教育委員会)
「渡辺崋山と(訪瓺録)三ヶ尻」(1996/熊谷市立図書館)

文化財指定
訪城年月日
2005/09/20
訪城の記録

( 2005/09/20 )
確かに何も見当たらず
 「新編武蔵風土記稿」にも陣屋跡として伝承とともに記され、渡辺崋山の「訪瓺録」にも「黒沢屋敷」として詳細なスケッチとともに記録されています。しかし、水田の圃場整備により近年において地表上はもとより地中からもほぼ完全に消滅してしまったようで、現在は周辺は一面の水田地帯となり館跡であった場所は事前の情報どおりに用水路の揚水ポンプなどの管理施設が建設されていました。曲がりくねっていたかつての堀跡も消えてしまい、往時の面影は影も形もないとはまさにこのことなのでしょうか。たわわに実った取り入れ前の見渡す限りの水田には、時々害鳥防除のための空砲の音が響き渡っていました。

記念撮影


 上記の発掘調査報告書などによれば、この用水路の揚水ポンプなどの施設のあるフェンスで囲まれた部分が黒沢館跡ということのようですが、大変残念ながら全く面影も何もありません。
 ( 2005/09/20 撮影 曇 )
訪城アルバム
■①■一応画像クリックで拡大しますけど、殆ど意味のないような...以下同様。
 北西側からみた光景です。小さくポンプ小屋が見えますが、どの角度から見ても全く面影はなく...
 ちなみにこの黒沢館の主郭部分は約600坪ほどの広さですので、この中に籠城できる人数はどう詰め込んでも最大で百五十人が限度です。したがって数千人を超える大規模な合戦がこのかつての自然堤防上の場所で起きることは収容人員の点からみても、地形的にもてもまずありえません。恐らくは百人前後の小競り合いというあたりが妥当な所ではないかと考えられます。
 なお、伝承などに登場する三ヶ尻の城とは、この黒沢館よりも寧ろ南西1.8キロメートルに所在する比高およそ50m、標高97.5メートルの観音山付近の方が守るに相応しい条件を備えているのではないかと思われますが、いかがなものでしょうか。

■②■
 古代から中世にかけての集落跡の可能性もあるらしい樋ノ上遺跡方面を望む。遠く写真に写っているのが熊谷西高校で、概ねその東側(写真に向って右側)の水田付近が樋ノ上遺跡のようです。

■③■
 館跡北西を流れる水路は全く新しく工事されたもので、写真のように勢いよく北東方向に向って流れていました。この圃場整備以前においては館跡の東側で大きく蛇行して南西から北東方向に向けて流れていたようです。熊谷市の発掘調査報告書によれば「ふるぼり」という名称が記されていて、外堀としての意味を持っていたと推定されています。
交通アクセス

・揚水ポンプ等の管理施設の場所が館跡で、JR高崎線籠原駅より南へ徒歩25分以内。 
MapFan Web の案内図です  

工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中