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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです。
関連ページへのリンク  2007/03/07のブログ
所在地
埼玉県比企郡小川町小川1353
遺構まがいの地形
平場もどき?
城館遺構の可能性
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

魅力的な呼称
 仙元山の山頂頂から北西にのびた尾根筋先端東側に大きく開けた谷沿いに所在し、南側には仙元山に続く急斜面が迫り、北側には槻川とその支流が東流するという取敢えずは「龍谷」(「要害」の転訛?であるかどうかについては皆目不詳)という名称に相応しい地形を呈しております。

訪城年月日
2007/03/07
訪城の記録 記念撮影

( 2007/03/07 )
 桑畑か椎茸か
 かつては眼病平癒にご利益があるとして信仰の篤かったとされる堂宇ですが、現在は訪れる人も余り居ない侘しさがそこはかとなく周囲に漂っておりました。もはや堂宇・祠に参詣するときの習慣となっていることもあり、世界平和と家内安全を祈願したものの結果的に全く見当違いもいい所でありました。もっとも、老眼のために低下する一方の視力なので全く縁がないという訳でもなく。
 さて、では何故この地を訪れたかと申せば、別に時節柄仙元山の麓のカタクリの花を愛でに参ったという訳ではけっしてありませぬ。ただひたすらに「龍谷」との名称が気になり訪れたまでのことにてございます。「読み方」については現在では「タテヤ」または「タツヤ」とも読むようですが、残念ながらけっして「りゅうがい」「りょうがい」ではございませんでした。けだし中世・近世は当て字が大流行り故に、この期に及んでも若しかしてと拘泥しつづける管理人でありました。また昔日の繁栄ぶりを今に伝えるやや錆が目立つ看板などによれば、正式には「龍谷山薬師如来」あるいは「龍谷山薬師堂」と呼んだ時期もあったようです。
 加えて、近くの里道では小川にかかる小橋の「かわいらしい石積みもどき」、さらに堂宇の南側の山中ではシイタケ栽培のために普請されたと思われる比較的新しそうな「平場」を発見したりして「遺構紛いめぐり」としてはまさに文字通りの「成果」が。

龍谷薬師 クリックで拡大します
仙元山北西麓に所在する龍谷薬師
( 2007/03/07 撮影 )
訪城アルバム
城館とは関わりのない水路沿いの石積み 画像クリックで拡大します
画像クリックで現地解説板へ
凸1 護岸の石積み
 里道沿いの小川にかかる小橋の脇には緑泥片岩製の「かわいらしい石積みもどき」が所在。
凸2 龍谷薬師
 埼玉県の設置した解説板によれば「たつややくし」と振り仮名が明記。しかし地元の小川町教育委員会の解説板および「小川町の歴史 民俗編」では「たてややくし」と記されております。こうした場合には、概ね地元の「読み方」を尊重すべきかと存じます。
 

北側から眺めた「誤解したい」地形 画像クリックで拡大します
ますます「誤解したい」平場状の地形 画像クリックで拡大します
凸3 誤解したい地形
 北側から見上げる地形は、思わず「おおっ、根古屋郭が..」などと一瞬息を飲んでしまったのでありました。
凸4 平場状の地形
 桑畑や食糧増産のための野菜畑としては日当たりに難がありそうで、恐らくは椎茸栽培などのために削平された地形と考えるのが妥当と思われます。広さは10m×20mで約200平方メートル以上の規模を有していました。

画像クリックで、もう一つの現地解説板へ
ヤブツバキ 画像クリックで拡大します
凸5 薬師堂
 墓地のあるあたりから見下ろした薬師堂。この薬師堂背後のひな壇状の地形は、恐らく墓地の造成に伴うものか以前の寺院跡とも伝わる遺構などに関連するものと考えられます。
凸6 境内脇の藪椿
 折から麓の境内近くでは藪椿(ヤブツバキ)が見事な色合いの花を咲かせておりました。

交通案内

・仙元山北麓に所在するカタクリ園および高西寺の西側の谷間
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「小川町の歴史 別編 民俗編」(小川町/2001編集発行) 

・2007/07/28 HPアップ

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