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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです。
関連ページへのリンク  2007/02/19のブログ
所在地
埼玉県比企郡小川町鷹巣
遺構まがいの地形
山頂の平場?
城館遺構の可能性
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

正式名称は不明
 小川町北東の鷹巣地区所在し、関越道や町道などにより囲まれた一角で標高139.6mの独立丘陵。 正式な名称が不明なため、便宜上「鷹巣山」あるいは「鷹巣の峰」と呼称することに。 関越自動車道の嵐山パーキングエリア下り線から眺めると、その北側にひときわ大きく聳えつつもなだらかな裾野を広げたような山容であるため以前より気になっていた場所。
 市野川とその北側を流れる支流に挟まれた「杉山城」「越畑城」「谷津城」などが所在する標高100m前後を測る丘陵の北西の端に所在し、 東西約400m、南北約300mほどの領域を有し、おそらくは周辺の丘陵の中での最高地点を形成しているものと推定。

訪城年月日
2007/02/19
訪城の記録 記念撮影

( 2007/02/19)
篠竹の藪とのバトル
 小川町北東の鷹巣地区所在する関越道や町道などにより囲まれた一角で標高139.6mの独立丘陵。 市野川とその北側を流れる支流に挟まれた「杉山城」「越畑城」「谷津城」などが所在する標高100m前後を測る丘陵の北西の端に所在。 東西約400m、南北約300mほどの領域を有し、おそらくは周辺の丘陵の中での最高地点を形成しているものと推定。
  随所に深い侵食谷を伴うため意外に山懐が深いものの、されとて方向を見失うほどの地形の複雑さはなさそうかと判断。 地図上からではすぐに所在地が分かるものと安易に考えていたものの、東側からの道路が通行止めのため北側から大きく迂回することとなり、関越道の47号地下道付近の道路脇に駐車。 一日当りの通行車両は間違いなく20台未満と思われる人里はなれた地域で、このため山の呼称くらいは何とか情報収集しようと試みたものの以前からの人家は皆無のためあえなくく断念した次第。
  倒木や木の枝が散乱しているため車の通行は困難かつ危険につき、全く人気のない関越の側道をすぐ脇を高速で通過する車両に追い抜かれながら南東に300mほど徒歩にて移動。 46号地下道の個所から沼地沿いの山道を北東方向に進むことに。 名称不詳の沼地の堰堤からはちょうど笠山・堂平山を真正面に見るというなかなかの眺望。
  さて、当初の予想通り山道は沼地の先端部分で次第に消滅の様相...しかし、尾根筋に登る踏跡を見つけてやがて細長い稜線へ。 篠竹の密生する稜線を時々現れる踏跡を確認しつつ、篠竹を避けるべく幾分東へと迂回して漸く谷筋が三方より迫る峠状の地形部分へと到達。この部分から眺めた北側一帯(鷹巣山東側の稜線)は明らかに尾根筋の大半が土砂の採掘などにより地形が改変されている様子がありありと。
 南東側からのアプローチなので篠竹は少ないと思ったのが大きな誤りにて。 また、山頂の南東側の稜線にはやや人工的な印象の地形も所在。 然し、おそらくは土砂の採掘に関連するものと推定。 ここからは比高差約30m、直線距離にして120mの背丈を越える篠竹が密生する個所を黙々と前進することに。 およその方向と現在位置は把握できるものの前後左右の見通しが利かず、とにかく斜面の傾斜を唯一の頼りに一路山頂へ。 所々かつて篠竹を伐採した個所があるものの、結果的にこれが地面から突き出た無数の竹槍のような按配に。 足元と目の負傷に入念な注意を払いつつも、一度だけ根性の曲がった篠竹に足を取られて転倒。 悪運が強いもので篠竹の竹槍攻撃を避け、右手の薬指の爪が割れた程度の被害のみ。 せっかく救急用品セット(包帯、捻挫用のテープ、傷薬、消毒薬、ガーゼ、ピンセット、鋏、刺抜き、バンドエイド各種)を持参しているので簡単な応急手当を実施。 人気の全くない山中で色々な意味で暫し満足感に浸ることに(苦笑)
 以上のような悪戦苦闘の末、漸く到達した山頂にはこれといった地形状の特徴もなくひたすらなだらかな地形が展開している様子にて。 「平場」というよりも自然地形の平坦地で南側の一部を除けば概ねなだらかな斜面であることが窺えるような状態。 とりもなおさず山頂部分も篠竹の叢生により眺望は無きに等しく、唯一大正時代の山岳信仰と密教の融合?とも推定される大日如来の文字が刻まれた石碑が所在していたのがせめてもの慰めかと。 近代のものとはいえ、少なくとも信仰の対象物を祀るような山であったことは確かということで。
 帰路は同じルートを戻るよりも北側の谷沿いに下るほうが篠竹が少ないことが明らかなので、2mほど下を流れる谷川に落ちないように注意を払いながら北側の山麓へ。 また山頂周辺はこの地域特有の篠竹の藪が密生しているため眺望は殆んどなく、かつその植生から考慮して南側から登ったにも拘わらず行動の自由さえ規制されることとなった次第。 結果的にはこの谷を遡及して途中から直登した方が篠竹も少なく歩きやすいことが判明。 滑川の丘陵地帯にひき続いて、またしても「無名峰低山紀行」のような様相を呈し始めたのでありました。

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鷹巣の峰 標高139.6m(比高差約70m)
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( 2007/02/19 撮影 )
訪城アルバム
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凸1 笠山・堂平山方面
 腰越城・青山城方面が見渡せるはずなのですが逆光のためよく分からないのでありました。なお、関越道の下のトンネルは東松山第46号地下道。
凸2 麓の沼 その1
 この沼地の向こう側の地形も比高差40mほどの尾根筋の先端部分であるため、なかなかにして魅力的な地形でありますが、何分にも適当なルートが見出せないのであります。

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凸3 麓の沼 その2
 沼地の左側の斜面が比高差70mほどの仮称「鷹巣の峰」なので、適当な沢か尾根筋を直登する選択肢も。然し最終的には明瞭な踏み跡が続く沼地の奥に所在すると思われる峠部分から大きく迂回する作戦に切り替えたのであります。
凸4 頭上から横矢が..
 構造上からは峠部分へと向かう道に対して頭上の尾根筋からなかば一方的に横矢がかけられる仕組みとなっておりましたが、その真相は何とも不明なのであります。

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凸5 東側から
 峠の東側部分は土砂などの採掘のため大きく地形が変容していますが、正面の山頂部分へのアプローチ自体にはさほどの支障がないようでありました。しかし、この残り比高差30m、直線距離で200mほどの間に、竹槍の伏兵共が手ぐすねをひいて待ち構えていたのでありました。
凸6 東側の人工的地形
 近年の土砂の採掘などに伴い発生したと推定される不自然な人工地形でありました。
 なお、この地点に到達するには右手の篠竹が密生した藪を数十メートルほど通り抜けねばなりません。(このため携行していたゴーグルを装着)

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凸7 山岳信仰の石碑
 山頂部分は篠竹の叢生により眺望は無きに等しく、唯一大正時代の山岳信仰と密教の融合?とも推定される「大日如来の文字が刻まれた石碑」がぽつんと所在していたのがせめてもの慰めかと。
 近代のものとはいえ、少なくとも信仰の対象物を祀るような存在の山であったことは確かということでそれなりの収穫かと。
凸8 西側からの眺め
 こうして西側の関越自動車道から眺める山容は実に堂々としていて、その立地条件から考慮する限りでは物見砦が置かれても不思議はない地形ではありました。
 なお、嵐山PAはこの写真のすぐ右側付近に所在しています。西古里と鷹巣の鎮守である弓矢明神社の社伝によれば、新田氏の一族である名族岩松氏に関する事跡が伝わるとのことですが、史実としての信憑性は定かではありません。(「新編武蔵風土記稿」「武蔵志」)

交通案内

・関越自動車道嵐山PA北側の山
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「小川町の歴史 通史編上巻」(小川町/2003編集発行)
「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行)
「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)
「小川町の文化財」(小川町教育委員会/2001年編集発行) 

・2007/06/03 HPアップ

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