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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月12日のブログ 本能寺址 二条御新造
所在地
 京都府京都市中京区上妙覚寺町、下妙覚寺町周辺
歴史、人物、伝承

京都における城構えの宿所のひとつ
 天正10年(1582)の本能寺の変に際して、当初織田信忠が宿泊していたとされる法華宗寺院で、おおむね押小路通と衣棚通が交差する現在の上妙覚寺町、下妙覚寺町周辺に所在していたものと考えられる。信忠は京都所司代村井貞勝の進言に従い、より堅固な二条御新造へ引き移って明智軍の防戦に努めたが、衆寡敵せず家臣と共に敗死した。
 妙覚寺は永和4年(1378)日実により四条大宮に開創されたと伝わり、応永20年(1413)以降は不受不施(ふじゅふせ)派(法華経の信者以外からの施しを受けず、他宗派の者には施しを行わないという教義)の拠点となった。文明15年(1483)将軍足利義尚の命により二条衣棚に寺地を移転した。天文5年(1536)の天文法華の乱において延暦寺衆徒の焼打ちに遭う。また上記の本能寺の変でも再度類焼したものと推定される。
 信長の上洛に際しては二条御新造と並んで10度以上も宿所として使用された。「上杉本洛中洛外図」には、総構えの一部とも推定される堀割と築地塀が描かれており、本能寺、二条御新造などと同様に寺院ながらも一定の防御機能を有していたことが窺える。
なお、永禄2年(1559)正月には、将軍足利義輝も武衛陣に御所を建造する以前一時この妙覚寺を仮御所としていたという。

確認可能な遺構
 なし
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年4月12日 15時05分
訪城の記録 記念撮影

 二条御新造の隣地とも
 本能寺の変当時に織田信忠の宿所となっていた著名な日蓮宗寺院跡なのですが、現在の町名で残されている事象以外には往時を伝えるものは無さそうでした。

 「信長公記」の記述などから、二条御新造の西隣付近と推定され上妙覚寺町、下妙覚寺町の地名が残されています。なお、下記の画像の文字は街角の消化器ボックスです(笑)

( 2011/04/22 記述)
推定妙覚寺跡付近
妙覚寺跡
( 2011年4月12日 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■郷土史・歴史
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「本能寺の変(新・歴史群像シリーズ)」(2007/学研)
「本能寺の変」(2010/藤本正行 著/洋泉社)
「織田信長合戦全録」(2002/谷口克広/中央公論社)
「考証織田信長事典」(2000/西ヶ谷恭弘/東京堂出版)
「証言本能寺の変」(2010/藤田達生 著/八木書店)
「織田信長総合事典」(1999/岡田正人 編著/雄山閣)
「信長が見た戦国京都」(河内将芳 著/2010/洋泉社)

■史料
「現代語訳信長公記 下」(2006/中川太古 訳/新人物往来社)
「原本現代訳信長公記 下」(1980/榊山潤 訳/ニュートンプレス)
「新訂信長公記」(1997/桑田忠親 校注/新人物往来社)
「川角太閤記」(1996/志村有弘 訳)/勉誠社
 藤本正行氏の指摘によれば、明智軍1万3千の唯一の典拠であるという。


■その他
各市町村公式HPなど

・2011年4月22日 HPアップ
・2019年6月26日 画像ズレ補正
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