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京都府京都市の城館索引へ戻る 二条殿址石柱 二条殿址のバナー 二条殿址
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月12日のブログ 本能寺址
所在地
 京都府京都市中京区二条殿町周辺
歴史、人物、伝承

織田信忠終焉の地
 天正4年(1576)3月頃安土城の普請と並行して京都押小路室町の関白二条晴良邸の跡地に信長の京都在留の拠点が起工された。「信長公記」によれば、「二条殿御屋敷、幸い空間地にてこれあり。泉水・大庭眺望面白く思召させられ、御不審の様子条々村井長門守に仰せ聞けられる」と記されている。
 しかし「言経卿記」「言継卿記」などでは関白二条晴良の新しい邸宅として報恩寺の改築が命じられ、4月10日には新しい邸へと入居しているなどの一連の経緯などから鑑みるに、実際に「空地」であったかどうかについては疑問の余地がある。庭園の景観には風情も感じられるが、事実上は老朽化していた関白邸を移転させた跡に、大規模な御殿を新造したというのが実情ではないだろうか。
 建築資材には松永久秀の多門山城から移動されたともいう。翌年天正5年閏7月に入居して二条御新造と呼称され信長の京都政庁として機能したが、信長の意思により天正7年11月皇太子誠仁親王に献上された。(「織田信長総合事典」より抜粋引用した)
 天正10年(1582)6月の本能寺の変に際しては、西隣の妙覚寺に宿泊していた織田信忠が、京都所司代村井貞勝の進言に従い、より堅固な当地に引き移って明智軍の防戦に努めたが、衆寡敵せず敗北して二条御所は灰燼に帰したという。
 近世二条城の東方約500mの地点付近に所在していたものと考えられ、その推定地に関しては「考証織田信長事典」の記述によれば、旧龍池小学校から北側の二条通りに面した一帯であるといわれる。現地には二条殿町との地名も残されているが、残念ながら地表上の遺構は現存してはいない。
 当該名称については多々あり些か煩雑である。すなわち二条関白邸の跡地に築城したことから二条邸とも、また家康の二条城に対して信長の二条城とも、当時の呼称としては二条御新造(にじょう/ごしんぞう)とも、完成後には正親町天皇(おおぎまちてんのう)の皇太子誠仁親王(さねひとしんのう)の御所とされたことから二条御所(にじょう/ごしょ)などとも呼称されている。
 二条における城郭としては、他に足利義昭御所(旧二条城)、妙顕寺城聚楽第徳川家の二条城などがしょざいするため、特に旧二条城との関係では出版物によって一部混同された記述も散見されることから留意する必要があろう。

確認可能な遺構
 石柱のみ
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年4月12日
訪城の記録 記念撮影

 織田幕府の消滅
 織田信忠が数百名に及ぶ家臣団とともに討死を遂げた二条御所址の史跡です。 信忠が抗戦した時の兵力数の推定については500名から1千名と幅がありますが、当時において守りにくいとされていた京都において、信長同様に直卒した兵力の余りの少なさに驚かされます。

 本能寺址の方も寂しげですが、史跡が多いとはいえこちらの方はさらに地味な印象も拭えません。現在は京都国際マンガミュージアム(旧龍池小学校)の校門脇に石柱が設置されているだけで、当地が史跡であることを示しているものはこれだけのようです。 

( 2011/04/21 記述)
二条御所址 ⇒ 画像クリックで拡大します
二条御所址
( 2011年4月12日 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「日本の城ハンドブック」(2005/三省堂)※注記の「二条城小史」に一部二条御新造と混同した記述が見られる。

■郷土史・歴史
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「本能寺の変(新・歴史群像シリーズ)」(2007/学研)
「謎解き本能寺の変」(2003/藤田達生 著/講談社)
「信長は謀略で殺されたのか」(2006/鈴木眞哉・藤本正行 共著/洋泉社)
「本能寺の変」(2010/藤本正行 著/洋泉社)
「織田信長合戦全録」(2002/谷口克広/中央公論社)
「考証織田信長事典」(2000/西ヶ谷恭弘/東京堂出版)
「信長の天下所司代」(谷口克広 著/2009/中央公論社)
「天正壬午の乱」(2011/平山優 著/学研)
「証言本能寺の変」(2010/藤田達生 著/八木書店)
「織田信長総合事典」(1999/岡田正人 編著/雄山閣)
「信長の天下布武への道」(2006/谷口克広/吉川弘文館)
「京都の歴史が分かる事典」(2005/日本実業出版社)※「二条城」の項目に一部二条御新造と混同した記述がある。

■史料
「現代語訳信長公記 下」(2006/中川太古 訳/新人物往来社)
「原本現代訳信長公記 下」(1980/榊山潤 訳/ニュートンプレス)
「新訂信長公記」(1997/桑田忠親 校注/新人物往来社)
 
「川角太閤記」(1996/志村有弘 訳)/勉誠社
 藤本正行氏の指摘によれば、明智軍1万3千の唯一の典拠であるという。

■その他
各市町村公式HPなど

・2011年4月21日 HPアップ
・2019年6月26日 画像ズレ補正
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