凸信長廟 現在の京都市役所南に所在する本能寺は天正15年(1587)に豊臣秀吉の命により移転再興されたものであるが、信長三男である信孝が建立したとも伝わる墓石が残され廟堂や変事に討死を遂げた家臣らの合祀された墓所などとともに存在している。 一方、天正10年(1582)本能寺の変当時の境内地(推定地)には石柱、石碑が元本能寺町に残されているのみであり往時の面影は無い。 信長は「安土宗論」に見られるように、法華宗に対して厳しい態度を見せる側面もあった。しかしそれは本願寺、延暦寺などに対する姿勢とは様子を異にして、これを経済統制下に置き庇護する立場にもたっていたことなどから、法華宗本門流の四大本山の一つである当寺においても丁重に祀られているものと考えられる。
凸 半世紀ぶりの対面 あくまでも複数所在する信長廟のひとつで、現在の本能寺境内本堂裏(東側)に所在しています。この地を訪れたのは高校の修学旅行当時なので、たぶん43年ぶりのはずですが、当時はあまり関心が無かったために墓所自体の記憶が消しとんでおりました。また当時宿泊したものと同一のものなのかどうかははっきりとはしませんが、微かな記憶のある本能寺会館の宿泊施設も健在でしたのでその所在地だけは確かなようです。
宿泊していたビジネスホテルからも近いことから、この際でしたので信長、信忠父子とともに討死を遂げたとされる家臣名簿をじっくりと確認させていただきました。たぶん「信長公記」と比較しますと約2倍近い人名が記されていますので、これらについては他の史料などからも引用されたものなのでしょうか。
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