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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月13日のブログ 本能寺址 二条御新造
所在地
 京都府京都市中京区寺町御池下ル
歴史、人物、伝承

信長廟
 現在の京都市役所南に所在する本能寺は天正15年(1587)に豊臣秀吉の命により移転再興されたものであるが、信長三男である信孝が建立したとも伝わる墓石が残され廟堂や変事に討死を遂げた家臣らの合祀された墓所などとともに存在している。
 一方、天正10年(1582)本能寺の変当時の境内地(推定地)には石柱、石碑が元本能寺町に残されているのみであり往時の面影は無い。
 信長は「安土宗論」に見られるように、法華宗に対して厳しい態度を見せる側面もあった。しかしそれは本願寺、延暦寺などに対する姿勢とは様子を異にして、これを経済統制下に置き庇護する立場にもたっていたことなどから、法華宗本門流の四大本山の一つである当寺においても丁重に祀られているものと考えられる。

確認可能な遺構
 信長廟(墓石、廟堂)、石柱、解説板
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年4月1日 6時45分から7時まで
訪城の記録 記念撮影

 半世紀ぶりの対面
 あくまでも複数所在する信長廟のひとつで、現在の本能寺境内本堂裏(東側)に所在しています。この地を訪れたのは高校の修学旅行当時なので、たぶん43年ぶりのはずですが、当時はあまり関心が無かったために墓所自体の記憶が消しとんでおりました。また当時宿泊したものと同一のものなのかどうかははっきりとはしませんが、微かな記憶のある本能寺会館の宿泊施設も健在でしたのでその所在地だけは確かなようです。

 宿泊していたビジネスホテルからも近いことから、この際でしたので信長、信忠父子とともに討死を遂げたとされる家臣名簿をじっくりと確認させていただきました。たぶん「信長公記」と比較しますと約2倍近い人名が記されていますので、これらについては他の史料などからも引用されたものなのでしょうか。

( 2011/04/27 )記述
本能寺廟 ⇒ 画像クリックで拡大します
織田信長廟(現本能寺)
( 2011年4月12日 撮影 )
訪城アルバム
 ⇒ 画像クリックで拡大
信長の墓所 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 本能寺の変戦没者墓所(画像1−1)
 信長墓所の向って左側には本能寺の変で討死を遂げた人々の合祀した墓所も所在しています。
凸2 信長の墓所(画像2−1)
 信長の三男である織田信孝が建立したとも伝わる墓石ですが、その経緯・詳細を確認するのを忘れました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■郷土史・歴史
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「本能寺の変(新・歴史群像シリーズ)」(2007/学研)
「考証織田信長事典」(2000/西ヶ谷恭弘/東京堂出版)
「証言本能寺の変」(2010/藤田達生 著/八木書店)
「織田信長総合事典」(1999/岡田正人 編著/雄山閣)
「信長が見た戦国京都」(河内将芳 著/2010/洋泉社)

■史料
「現代語訳信長公記 下」(2006/中川太古 訳/新人物往来社)
「原本現代訳信長公記 下」(1980/榊山潤 訳/ニュートンプレス)
「新訂信長公記」(1997/桑田忠親 校注/新人物往来社)

■その他
オフィシャルサイト「京都観光ナビ」
同「本能寺ルネッサンス」

・2011年4月27日 HPアップ
・2019年6月27日 画像ズレ補正
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