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京都府京都市の城館索引へ戻る 福井藩邸跡 福井藩邸跡のバナー
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2014年12月15日のブログ 本能寺跡 妙顕寺城
所在地
 京都府京都市中京区油小路二条下ル土橋町
歴史、人物、伝承

幕末の政局に影響を与えた大名屋敷のひとつ
 現地に設置されていた説明版(駒札)には、「この油小路二条下ル西側(現京都国際ホテル)の一帯には、江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。藩邸が置かれたのは比較的新しく、天保2年(1831)の「京絵図」に描かれている。藩邸は藩の京都連絡事務所で。留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当たったところである。福井藩は、慶長5年(1600)年徳川家康の二男結城秀康(ゆうきひでやす)が封ぜられたのに始まる親藩(しんぱん)の雄藩で、石高は最大68万石、江戸中期以降は32万石。幕末に松平慶永(まつだいらよしなが)が藩主となってから、人材を登用して藩政を改革し、水戸藩とともに幕府政治の改革に乗り出し、更に公武合体運動を進めて、幕末政局に一方の旗頭となって活躍した。この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって大きな役割を果たした。中京区油小路二条下る土橋町」と記載されていたが、因みにこの文言はオフィシャルサイトである「京都観光ナビ」記載されている内容と一字一句全く同一のものであった。
 松平慶永(1828-1890)は御三家に次ぐ御三卿のひとつである田安家の出身であり、天保9年(1838 )養子先の福井藩遺領を相続し福井藩主となった。その後は外圧や安政大地震などの難局に際して、水戸藩主徳川斉昭、島津藩主島津斉彬、仙台藩主伊達宗城らと幕政の改革等に尽力したが、安政5年(1858)井伊直助の大老就任後には将軍後継問題を始めとする政争に敗れ隠居謹慎処分となった。
 しかし文久2年(1862には再び)幕政に復帰して政治総裁職をつとめ、将軍後継職の一橋慶喜とともに横井小楠らを登用して公武合体による幕府生き残りを画策したが討幕を目指す薩長勢力により退けられた。(以上はおおむね「日本史広辞典」山川出版社より引用した)
 なお周辺には堀川通りの向かい側には近世の二条城、そして東側の古城町(ふるしろまち)を中心とする一帯には一時は豊臣秀吉の政庁となった時期もあったとされる妙顕寺城、その南方には織田信長が明智光秀に討たれ横死した本能寺跡などの史跡が存在している。

確認可能な遺構
 石柱、説明版
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2014年12月15日 20時20分頃
訪城の記録 記念撮影

 足回りの危機
 嵐電の踏切で2か所の寺構えに遭遇したのちは、丸太通を左折して旧内裏関連の史跡を横目にして当初の予定通りに京都市立中央図書館へ向かい、所要の資料調査を行いA3サイズで300枚ばかりの複写作業を超スピードでこなし、19時50分に退館し堀川通を南下して一路京都駅前のホテルへと向かいました。
 その途上でたまたま京都国際ホテル(⇒藤田観光グループのこのホテルは、訪問直後の2014年12月26日で営業を終了して閉館となった。その後一時高層マンション建設計画が持ち上がったが計画は白紙となり、その後阪急グループが所有地を買い受けて現在に至っている)前の歩道沿いで、ありがたいことに「福井藩邸跡の石柱と解説板」(20時20分頃到着)に遭遇し、記念撮影をさせていただいたものが下記の写真です。
 たまたま1か月前の2014年の11月に茨城県の結城城を訪れていることから、正しく結城秀康公(初代福井藩主)のお導きというような結果に落ち着いたのもきっと何かのご縁なのかと深く感じ入りました。
 なおこの日は結果的に約5時間弱ばかり約19キロメートルを歩行しました。無論市バスやタクシーに乗車するという選択肢も考えてはいたのですが、3年前の2011年4月上洛時と同様で、こうした偶発的な石柱のみの文化財探訪も想定していたことから敢えて徒歩を選択した次第なのです。
 その報いは加齢と日頃の鍛錬不足の影響もあり、右足踵の骨棘+両足踵の痛み(⇒「足底腱膜炎」)に加えて、左右の小指に水疱が1個所ずつ発生(⇒「内反小指」の症状の一種)してしました。
 歩行中は分速80メートルを大きく下回ることとなり、踵に重心をかけると踵が悲鳴を上げ、足の指先に重心を移すとマメが疼くといった具合でしたので、一歩一歩の足取りも極端に重くなり、とりわけ二条城を過ぎてから四条あたりにたどり着くまでがやけに長く感じられ、さらに五条の交差点を渡る際に横断歩道という選択肢がなく、歩道橋の階段を上り下りして渡らねばならないという状況に直面した時には、既に夜中でもあり文字通り目の前が真っ暗となりましたことを1年後の現在でも克明に記憶しています。
 このようにして、翌日からの悪天候に加えて生来の頑固さに起因した足回りの不調が懸念される状態となってしまったのでした。またこの日はこうした状況でしたので、近年では二度目となった二条城も遠景の夜景を撮影しただけで先年に引き続いてまたしてもパスすることとなったのでありました。

( 2015/11/17  記述 )
福井藩邸跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
福井藩邸跡の石柱と説明版
( 2014年12月15日 撮影 )
訪城アルバム
福井藩邸跡の石柱など ⇒ 画像クリックで拡大
 ⇒福井藩邸跡の解説版(駒札) 画像クリックで拡大
凸1 福井藩邸跡(画像1−1)
 京都国際ホテル⇒(訪問直後の2014年12月26日閉館)が所在していた敷地の堀川通り沿いに石柱と説明版が設置されていました。
凸2 説明版(駒札)(画像2−1)
 中央図書館からの帰路、最短距離で堀川通りをふらふらと南下している最中に偶然遭遇した邸跡ですのでまさに感動モノでした。

 ⇒二条城の夜景 画像クリックで拡大
 ⇒京都駅北口広場 画像クリックで拡大
凸3 二条城の夜景(画像3−1)
 堀川通りを挟んだ福井藩邸の反対側(西側)には二条城があるのですが、時刻も遅く今回もまた2011年上洛に続いてまたしてもパスすることとなりました。画像右側の足場パイプは東大手門の修繕に伴うものです。
凸4 京都駅北口駅前の夜景(画像4−1)
 二条から四条までの道のりはやや暗いこともあり、実際の距離よりも遥かに遠く感じられ、ほとほと疲れ果てどうにか帰り着いた宿泊先の法華会館からの夜景です。
交通案内

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いつもガイド の案内図です
 いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「京都府中世城館跡調査報告書第3冊」(京都府教育委員会/2014)
「京都市内およびその近辺の中世城郭−復元図と関連資料−」(京都大学人文科学研究所調査報告第35号/山本 正男/1986/京都大学人文科学研究所)
「京の城−洛中・洛外の城館−」(京都市文化財ブックス第20集/2006/京都市文化市民局文化財保護課)

■郷土史・歴史
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「角川日本地名辞典 26京都府」(1982/角川書店)
「日本史人物辞典」(2000/山川出版社)
「京都の歴史がわかる事典」(五島邦治 編著/2005/日本実業出版社)
「図説 歴史で読み解く京都の地理」(正井泰夫 監修/2003/青春出版社)
「日本史が面白くなる地名の秘密」(八幡和夫 著/2013/洋泉社)
「京都まちかど遺産めぐり」(2014/ナカニシヤ出版)
「京都府の歴史散歩〜上・中・下」(2011/山川出版社)
「信長が見た戦国京都」(2010/河内将芳 著/洋泉社)
「京都・観光文化時代MAP」(2006/光村推古書院)

■史料


■その他
オフィシャルサイト「京都観光ナビ」
「京都市考古資料館」のサイト
「京都府立総合資料館」のサイト
各公式HPなど

更新記録
・2015年11月17日 HPアップ
・2019年 6月27日 画像ズレ補正
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