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凸米津陣屋跡 米津氏(よねきつし)は幕末期には出羽長瀞で1万1千石を領知していたが、戊辰戦争の戦禍によりにより陣屋等は焼失した。明治2年(1869)版籍奉還により、藩主米津政敏は長瀞藩知事となったが、支配地が6か国13郡に分散していることから支配地の集約を要請し上総大網村へと藩庁を移転した。明治4年(1871)2月常陸・上総・武蔵3国6郡へと支配地の再編が叶い、藩庁を龍ヶ崎村へと再移転したが、5か月後には廃藩置県が実施され実質的な支配の履行はなかったものと考えられている。 またこれに遡る慶長11年(1606)2月には、関ヶ原の戦功により、1万石余りが伊達政宗に知行された。このため本拠地である仙台藩領の飛び地となり、龍ヶ崎城の西麓に代官陣屋が配置され幕末まで継続したという。 両陣屋跡はともに龍ヶ崎小学校付近と推定さされているものの、その遺構は現存せず関連する文化財標柱なども設置されてはいない。
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