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茨城県竜ケ崎市の城館索引へ戻る 龍ヶ崎城の遠望 龍ヶ崎城 龍ヶ崎城の土塁
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/16のブログ 
所在地
 茨城県龍ヶ崎市古城(龍ヶ崎第二高等学校)
歴史、人物、伝承

戦国期土岐氏の有力支城
 「新編常陸国誌」等によりますと、鎌倉時代には白幡台に居を構えたとされる龍ヶ崎氏(下川辺氏の一族)の居城のひとつとも伝わりますが、多分に伝承の要素が強く史実としてそのまま捉えるには無理があるようです。
 時代は下り、戦国時代末期の永禄10年(1567)頃には、江戸崎城を本拠地とした土岐(土岐原)氏の当主土岐治英は龍ヶ崎地方の支配を強めるために、龍ヶ崎城の普請を拡大強化し、次男である胤倫(たねとも)を龍ヶ崎城主に据えて、土岐原氏支配地西方地域における有力な支城として機能させたものと推定をされています。
(※「貞享元年 龍ヶ崎城改築についての覚書−「諸岡文書」−」などより)
 その後、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東侵攻に伴い後北条氏滅亡すると共にその傘下にあった土岐氏も滅亡を余儀なくされました。翌年、佐竹氏の一族である佐竹盛重が江戸崎て4万8千石の城主とて封じられますが、「諸国廃城考」などの記述によればその支城として存続していたと推定する説もあります。一方「龍ヶ崎市史中世編」では、本拠地である江戸崎での支配集中により事実上廃城となった可能性を示しています。
 しかしその後関ヶ原合戦時において去就の定まらなかった佐竹氏は、慶長7年(1602)秋田へと移封されたことにより龍ヶ崎城もここに完全に廃城となったようです。
 なお近世初期には伊達藩の飛び地(約1万石)が存在したために一時的に伊達藩の陣屋が龍ヶ崎城の西麓に置かれました。
 別名を「龍が峰城」とも。

確認可能な遺構
 土塁、切岸(共に一部分のみ)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月16日 9時00分から10時30分、2009年1月10日再訪
訪城の記録 記念撮影

 北西部に僅かに残存する土塁
 体調不良のために冒頭から2時間遅れという幸先の悪さ。然もどちらかといえば目ぼしい遺構が少ないという訪問先。行動予定が遅れたこともあり市役所に駐車を。尤も市役所に用のない場合には駐車禁止との掲示が設置されておりました。勿論今すぐ用はないことは紛れも無い事実なのでありますが、然し後で確認したいこともあるので路駐よりは迷惑がかからず許容範囲と解釈させていただくことに。
 かくして徒歩にて数百メートルほど東側の城跡が所在するという丘陵へと赴いたのでありました。城跡の大半は龍ヶ崎第二高校の校庭のため辺縁部の崖を除くとほぼ遺構は消滅に近い状態。加えて東側に続く丘陵地帯はかつての宅地造成により丘陵そのものが消失しているという次第。ただしその場所から少し離れて郭跡とされる御嶽神社が所在する丘陵がポツンと残存するというような誠に寂しげな景観ではあります。
 それでも「市史」に記されていた三の郭とされる鹿島神社北辺の土塁遺構を捜索。神社裏側から丘陵辺縁部を辿ると確かに藪の中に、高さ1.2m、延長40mほどの土塁が明確に残存。 他にも笑い話の素材になりそうな紛らわしい地形も幾つか所在。主郭と推定されている御嶽神社に立ち寄った後は、麓の高校設立の経緯を記した石碑の情報の確認とあわせ、龍ヶ崎城の遠景を撮影するために北西方向に所在する龍ヶ崎第一高校方面へと徒歩にて移動開始。

( 2009/02/12 記述 )

龍ヶ崎城北西部の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
龍ヶ崎城北西部の土塁
( 2008/12/16 撮影 )
訪城アルバム
龍ヶ崎城西端の鹿島神社境内 ⇒ 画像クリックで拡大します
龍ヶ崎城南麓の石碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 鹿島神社境内
 龍ヶ崎城西端に所在する鹿島神社境内の崖線辺縁部には低土塁状の地形が確認できますが、龍ヶ崎城の遺構と関係があるかどうかについては分かりかねます。
凸2 南麓の石碑
 恐らく「新編常陸国誌」からの引用と推定され、史実と伝承がやや混在している面もあるように思われますが、とりたてて文化財の説明板などもないことから訪問者にとっては実に有難い存在なのであります。

龍ヶ崎城の遺構とは無関係な紛らわしい地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
龍ヶ崎城西側の切岸状地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 紛らわしい地形
 龍ヶ崎第二高等学校北側に所在する気にかかる地形ですが、「市史」等に記されている限りでは直接龍ヶ崎城に関連するものではなさそうです。
凸4 唯一の遺構
 龍ヶ崎城唯一の遺構が遺されている地点で、右側が切岸状の地形を示し、その上部に延長約40mほどの土塁遺構(東側から)を確認することができます。
北東側から撮影した土塁遺構

龍ヶ崎城東端の御嶽神社 ⇒ 画像クリックで由来が刻まれた石碑の画像へ
龍ヶ崎城の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 御嶽神社
 神社の縁起によれば、近代初頭になってから勧進されたとされる御嶽神社は、「市史」等の記述によりますと龍ヶ崎城の主郭部分に相当していたものと考えられているようです。
 なお、こちらも北側部分が多少駐車場整備のために削平されている模様でありました。
凸6 龍ヶ崎城遠望
 龍ヶ崎城の北北西約500mに所在する龍ヶ崎氏の館跡と伝わる龍ヶ崎第一高等学校(通称を「龍ヶ峯」)の台地から遠望したもので、お互いを見渡すことのできる位置関係にあります。
 なお、御嶽神社と第二高等学校の間が宅地化により消滅した二の郭に相当する模様です。
交通案内

・龍ヶ崎第二高等学校敷地および鹿島神社・御嶽神社境内、比高差は最大で20mほどを測る

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「図説茨木の城郭」(2006/茨城城郭研究会/国書刊行会)

■郷土史・歴史関係
「茨城県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「茨城県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「龍ヶ崎市史 中世編」(1998/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史 中世資料編」(1993/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史中世資料編別編2 龍ヶ崎市の中世城郭」(1987/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市の文化財」(1991/龍ヶ崎市)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。

■史料
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)
 ⇒諸国廃城考
「関東古戦録」(槙島昭武/2002/あかぎ出版)

・2009/02/12 HPアップ
・2011/10/09 記述追加訂正
・2019/06/14 画像ズレ補正
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