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茨城県守谷市の城館索引へ戻る 今城の遠望 今城、別名高野城、高野要害とも
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/04のブログ 
所在地
 茨城県守谷市けやき台(うららか公園=今城城址公園)
歴史、人物、伝承

南北朝期の築城とも
 守谷市公式HP等によりますと、別名を近世以降の村名から高野城(こうやじょう)あるいは高野要害(こうやようがい)とも呼び、また伝承によれば高野の地名は平将門が守谷城を築城した際に紀伊国の高野山に擬して名付けたともいわれていわれ、このためこの今城の築城についても将門が築城したとの伝承が残っています。
 しかし実際には将門の時代ではなく遥か後の南北朝期において、当地に勢力のあった守谷城主の相馬忠重が南朝方となり、暦応2年2月(1339)に吉野から北畠顕時(北畠親房の第4子、侍従春日顕国とも)が参陣したことに伴い、相馬氏により暦応3年・興国元年(1340)5月に築城した城郭という説が有力な模様です。(「水海道市史上巻」「守谷町史」より)
 なお、「常総戦国史」では高野館として紹介した上で、忠重の数代前にあたる胤継の代に相馬氏の本拠として築かれたという説を提示しています。
 「守谷町史」に転載されている「高野城調査報告書」によれば、現存する遺構は舌状台地先端付近に残存する土塁(郭跡の一部を含むか)のみで、他の部分については80年代前半に行われた谷津を埋め立てる等の大規模な宅地造成によりその姿が著しく変貌した模様です。しかし。明治初期の「迅速図」を見る限りでは、東側からのびる複数の括れた地形を含む舌状台地であったことが読み取れます。

確認可能な遺構
 土塁、郭?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月04日 15時30分から15時45分
訪城の記録 記念撮影

 帳尻合わせ
 夕暮れ間近の慌ただしい恰も帳尻合わせのような探訪でありました。低湿地を天然の堀とした舌状台地先端部を利用した城郭で、住宅地の都市公園の一角に郭と土塁等の遺構の一部が残存しています。全体の半分以上は宅地化されているという印象でしたが、簡潔で分かりやすい説明版も城址公園内に所在しています。
 この日の日没時間は16時15分頃のはずでしたが、現地に赴いた時には既に西側の水田地帯から遠望する城跡は既に夕日に染まりものの見事なオレンジ色に変貌しておりました。それでも当初の予定通り何とか5か所を探訪することに成功したのでありました。公園化される以前の様子が分からず、本来の遺構がどの程度消失することとなったのかがとても気にかかりました。
 このためその後「守谷町史」で確認したところでは、舌状台地先端部の土塁遺構が残存している個所は主郭部分に相当するものとされ、3つの郭が直線状に並ぶ城郭形式であると推定されています。
 ⇒「守谷町史」掲載の図を基に作成した俯瞰図
 このあとは守谷市立図書館へと赴き、約2時間かけて関係資料を閲覧しつつ黙々と複写する作業を実施。ただしコピー機のスキャナ速度が驚くほどに遅く、とれほど効率的に作業しても1分当たりせいぜい5枚が限度という状況であることが判明。このため閉館時間の午後7時ギリギリまで粘ったものの結局タイムアップに(苦笑)
 なお今後のこの地域の探訪に際して、竹藪・笹薮・湿地が多いこと、利根川を始めとする鬼怒川、小貝川等を含む河川の流路が介在することにに伴う行動上の大きな制約のあること、曲がりくねったわかりにくい細い道筋が多い等々地理的な特徴を把握できたことは今後の探訪に際しての大きな収穫のひとつなのでありました。

( 2008/12/23 記述、12/27訂正 )

西側の水田地帯からの「今城」遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
今城の遠望
遺構が残存しているのは画像左側の一部でほかの部分は完全に宅地化
( 2008/12/04 撮影 )
訪城アルバム
「今城」の土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
「今城」の土塁遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 今城の土塁と郭跡
 地元では「いまじょう」「いまんじょ」と発音するとのことですが、これは会話の際に「うん、だっぺ」(そうだろう)「うんだ、うんだ」(そうだ、そうだ)というような言い回しに見られるように、恐らくは県南地方独特の方言による転訛であるものと推定されます。
 従って、守谷市HPでは等では「今城城」(いまんじょじょう、いまじょうじょう)と表記していますが、当サイトでは現地解説板の記載に沿って「今城」(いまんじょ、いまじょう)と表記いたしました。なお「水海道市史上巻」では「新城」(いまんじょう)と表記しています。
凸2 今城の土塁遺構
 土塁の規模は高さ最大2mほど、延長は50m弱というところでしたが、思いのほか立派な土塁でありました。所在地点は概ね舌状台地の付け根部分に相当し、東側の台地続きの方面からの侵入を意識しているように見受けられました。
 公園化される以前の様子を伝える詳細な関係資料が手元にないことから何とも歯がゆいところでありますが、土塁上から眺めた限りでは画像右側の郭部分を取り囲むような形跡が窺えないようにも思われました。
交通案内

・けやき台うららか公園(今城城址公園)に所在、水田との比高差は最大でも約15mほど

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
なし

■郷土史・歴史関係
「茨城県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「常総戦国史」(川島 建/2002/崙書房)、
「図説伊奈のあゆみ 伊奈町史通史編」(2007/つくばみらい市)
「伊奈町史 資料編1」(2001/伊奈町)
「牛久市史 原始古代中世」(2004/牛久市)
「取手市史通史編」(1991/取手市)
「取手市史 古代中世資料編」(1986/取手市)
「守谷町史」(1985/守谷町)
「水海道市史 上」(1983/水海道市)

■史料
なし

■その他
守谷市役所公式HPより「守谷市の文化財−史跡」

・2008/12/23 HPアップ
・2008/12/27 記述の追加訂正
・2019/06/14 画像ズレ補正
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