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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/19のブログ 茶臼館
所在地
 福島県郡山市三穂田町山口字館
歴史、人物、伝承

所在地と城館名称の齟齬
 山口村の村高は文禄3年の蒲生高目録には477石余と記載され、幕末文政5年の「大槻組並山之内五ケ村大概録」によれば、本田高664石余・新田高298石余、家数63軒・人数276人と記されているように集落としての規模はけっして大きくはない。
 「積達古館弁」の記述によれば、「山口村館 里老伝に城主登那木丹後と云々、」とのみ記されているだけで、それ以上の記述は見ることができないが、東方の茶臼館についても全く同様の記載が見られることから、一般的には茶臼館を平時の居館とし、この山口館を非常時の防御施設として利用していたということは想定できるが、無論あくまでも推測の域を出ないものである。
 この山口の地は遅くとも14世紀の初めころから大槻伊東氏の支配下に置かれていたが、永禄5年(1562)の三春田村氏の侵攻により大槻城が落城したことにより、大槻伊東氏当主である三郎左衛門高行は死亡し、その後大槻氏の庇護者であった蘆名氏によりその領地の大半は併呑された状態にあったものと考えられている。

※所在地と城館名についての若干の考察
 当該所在地については、上記のように一応「まほろん」「福島県中世城館調査報告書」掲載のものをそのまま表記したが、城館跡でもある日枝神社の社の所在地は「福島県神社庁」或いはウェブ地図などの情報からは、三穂田町山口字北台田(きただいた)40と表記されており、字「館(たち)」は茶臼館の方の所在地とも考えられる。

 この点について、資料不足ではあるがいくつかの基礎的資料の記述を確認してみると概ね次のようになる。
 まず、「城郭体系」では、山口館に関する記述はなく、茶臼館については三穂田町字山口字芦の口とし「芦名城介の居館」(⇒出典不明)とする記述がある。
 次に「福島の中世城館跡」(福島県教育委員会編、文化庁からの補助金による所謂悉皆調査で「中世城館調査報告書」ともいう)では、山口館の所在地を三穂田町山口字館(たち)とし、茶臼館については三穂田町山口字芦ノ口としているが、付属の分布図では丘陵上を茶臼館、館集落の方を山口館と記載している。
 一方「まほろん」では、これとは反対に丘陵上を三穂田町山口字館の山口館、平地である館集落の方を2008年以降に改定を加えて三穂田町山口字館ほかの茶臼館と記載している。
 なお、「積達古館弁」では山口館について山口村館とも記し、茶臼館とともに城主を登那木丹後とし共にに山口村の城館として併記している。
 このほか 「日本城郭全集」「会津・仙道・海道地方諸城の研究」の両書は共に記述自体がなされてはおらず、また芦の口に確認されている中世城館は「まほろん」の記述を引用する限りでは三穂田町字山口「片岸館」であって、「福島の中世城館跡」が記すような「茶臼館」ではないという問題もある。
 以上のように各資料により所在地、名称に差異が生じている状況であることから、実に分かりづらいものがあり、所在している地形上の特徴(山容)を表すとも考えられる「茶臼」( ⇒ これが仮に「茶臼山」であるならば、ほぼ平地の名称ではありえない可能性がある)という名称、「積達古館弁」での「山口村館」という表現などから考察すると、日枝神社が所在する丘陵上のものを茶臼館、平地である字館に所在するものを山口館とした方がよさそうにも思われるが、ここでは所在地表記に齟齬があるものの、あくまでも便宜上最も新しい情報であると想定される「まほろん」の記述に従うものとする。

確認可能な遺構
 神社造立に伴う削平との区別が困難
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月19日 13時10分から13時55分
訪城の記録 記念撮影


 南方への牽制
  「まほろん」(福島県文化財データベース)の情報によりますと、山口集落南方約400メートルの地点に存在する独立丘陵の東側斜面が当該地とされており、現在は日枝神社の境内地が所在しています。
 神社境内の麓からの比高差は約20mほどですが、西側に続く尾根筋の最高地点標高322.4mでの比高差は50m前後を測り南方に限れば眺望には優れ、多田野川の流れと相俟って北部の集落を防御するような位置を占めていました。
 しかし、神社造立に伴う削平工事とそれ以前の中世城館遺構との区別が難しく、またルート以外では藪が視線を遮り地表の様子を観察することを困難にし、その城郭としての範囲を特定することは難しく感じました。
 この山口集落の当時の人口規模からすれば、南方に対して睨みを利かすには最適なのですが、尾根筋全体で東西方向が300m以上にも及ぶとようなことは、一時的にせよ二階堂氏や蘆名氏などの大きな勢力の拠点とされない限りにおいては些か考え難いものがあると思いますが、日枝神社境内付近を除く他の稜線沿いには参道の通路以外には人工的な削平などの形跡を見出すことはできませんでした。
 なお、有難いことに尾根筋のルートがきれいに整備されていることから、日枝神社へは北東側の参道、西側の裏参道のいずれからもアプローチが可能でした。

( 2016/06/16 記述)
「山口館」 ⇒ 画像クリックで拡大します
日枝神社表参道
( 2015/10/19 撮影 )
訪城アルバム
「日枝神社裏参道入口」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「山道の分岐」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 日枝神社裏参道入口
 車も途中までは入れますが、この先を少し曲がったあたりに小さな駐車スペースがあり、その先の道は次第に細くなっていきます。
凸2 山道の分岐点
 この左奥あたりが、丘陵の最高地点で標高322.4mになるはずです。

「丘陵の最高地点」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「日枝神社の石段」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 丘陵の最高地点
 この場所が丘陵最高地点ですが、この先に僅かに削平されたような印象の場所がありましたが新しいもののようにも思え、他はほぼ自然地形になっていました。
凸4 日枝神社の石段
 日枝神社表参道の石段の斜面ですが、この分だけで比高差は12m以上で両側が切岸のように切り立ってはいます。

「笹原川支流の多田野川」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「山口館遠景」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 笹原川支流の多田野川
 館の北側を東流している阿武隈川支流の笹原川のそのまた支流の多田野川で、近年の河川改修により流路が直線に近くなっては椅いますが、往時はこの丘陵と相俟って天然の防衛ラインを形成していたことが窺われます。
凸6 山口館遠景
 南西方向の山麓付近からから撮影したもので、仮に茶臼館の名称がその地形の特徴に由来するものであるとすれば、実に相応しい山容を見せています。


「茶臼の名に相応しい山容」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「多田野川と丘陵」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 茶臼の名に相応しい山容
 総鎮守である日枝神社の石柱と日枝神社が所在している丘陵で東側から眺めると大分山容が変化しますが、字館集落が所在しているこちらの側からの方がさらに茶臼館に相応しい印象を抱きます。
凸8 多田野川と丘陵
 市内の各所では除染作業が頻繁に実施されていましたが、残念ながら山林の中は事故前の数倍ほどの空間線量を示していました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林)
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)

郷土史関係等
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「河田左衛門尉祐義」の名が見られる。
「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。

史料
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 「山口村館 里老伝に城主登那木丹後と云々」との記述があり、この近世に編纂された地誌に僅かに伝承が記されている。
「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)
「大槻家伝光録」(「大槻町の歴史」ほかより)
 江戸時代末期安政3年(1856)に編纂された同書によれば、鎌倉時代初期に鎌倉御家人伊東氏の所領の一つとなり、その後建武政権のころには伊東祐高が大槻地方を領有を続け、駒屋に富田美濃(伊東氏一族か)、山口に松井大学頭、針生に窪田掃部などを配置した旨が記されている。しかし同書は、あくまでも後世の幕末期に仙台角田藩家臣の大槻家末裔とされる大槻祐洋の手によるもので、その遠祖を顕彰するというような側面もあることから、史料としての限界があるという点について留意する必要も感じられる。
「大槻町の歴史」(2009/郡山市・大槻町合併55年記念事業実行委員会)
 大槻伊東氏に関する最も基礎的な事跡が数多く掲載されている書籍である。同書によれば、大永元年(1521)に会津の蘆名盛舜が大槻伊東高行に与えた知行状に、三穂田山口、駒屋をはじめとして逢瀬町多田野、芦ノ口、大谷、八幡、柴宮の在家名が記されているという。この文書については出典の明記はないが、「郡山市史8巻資料編」の中世史料349「伊東高行証状」(松藩推古)、350伊東高行知行充行状(相殿八幡神社文書)などによると、天文19年(1550)において引き続き山口の地が大槻高行の所領の範囲に含まれていたことを裏付けるものとなっていることが確認される。

その他
福島県文化財データベース「まほろん」
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。


・2016/06/09 HPアップ
・2016/07/21 史料などの記述を追加
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