福島県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 福島県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
福島県郡山市の目次へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/19のブログ 白山館
所在地
 福島県郡山市三穂田町字築館、字白山、(字亀賀森)
歴史、人物、伝承

経緯不明の城郭
 戦国期には旧富岡村は須賀川の二階堂氏に影響下に置かれていたことから、二階堂氏重臣の須田氏、それ以前には在地勢力である富岡氏などとの関連が想定される。
 しかし直接この城跡に関して言及している同時代における一次資料である所領宛行状や所領安堵状などの発給文書が遺されていないので、その歴史的経緯については不明な部分があるものと言うべきであろう。
 無論、宮城県築館町にに所在している著名で同名の築館との関連は無い。
 また「まほろん」( ⇒ 福島県文化財データベース、以下「まほろん」と記載)が明示している城跡の範囲については、関連する文化財包蔵地を含んでいるような広義の城域を指しているのか、それとも想定される縄張りからそのような範囲を捉えているのかについては、その簡潔すぎる情報掲載方法等の問題もあることから、詳細には窺い知ることができない。 すなわち広域西側の標高311mの丘陵を含む広大な領域であるのかどうかという点については、明確であるとは言い難いように感じる。
 仮に「まほろん」が示しているように、西側部分の丘陵地帯までを城域に含むという場合には、東西約350m、南北約100mという比較的規模の大きな城郭となり、小規模な地域勢力が保持するような拠点であるという可能性は想定されなくなる。
 また逆に城域が亀賀森神社が所在している小丘陵のみであるとすれば、須田氏一族のような勢力規模の拠点としては狭隘に過ぎるきらいがあるものと考えられる。
 なお、当該城跡の所在地は字亀賀森に含まれているが、「まほろん」では字築館と字白山、「中世城館調査」と「城郭体系」では字築館というように表記されている。

確認可能な遺構
 土塁(高さ約2mから3m)、空堀(最大15m)、(東西約30メートル、南北約20メートル)、小口?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年10月19日 12時00分から12時50分
訪城の記録 記念撮影


 幸せの時間
 土塁、空堀、郭(東西約30メートル、南北約20メートル) 森神社の境内地およびその西側に続く小丘陵に小規模ながらも明確な中世城館遺構が現存しており、ある種の感動を伴うこの日最大の成果でもありました。
 しんし亀賀森神社境内の遺構部分については、削平地、切岸ともに神社造立にともなう普請との区別がつきにくいものを感じます。
 しかし、社殿奥の西側部分には内側での高さ2メートルを超える土塁が見事に全周しているとともに、東西約30メートル、南北約20メートルほどの楕円形の郭自体もほどよく削平されていることを確認できました。
 これに加えて北側、西側、南側の一部に幅10メートル以上の空堀が半分以上も現存し、東側は神社参道などの普請により空堀は確認できないものの、かつてはこの小丘陵全体を取り巻いていた様子も浮かび上がってきました。
 また、空堀の外部には西側と北側を中心として土塁状の盛り上がりも現存していることから、元来は二重堀構造であった可能性もまた一考に値するようにも思われます。
 なお、遺構が存在する小丘陵の北側部分は現在幅員4mほどの公道を挟んで資材置場として利用されており、また南側の民家沿いでは空堀が埋め立てにより半分ほど消失しているという状況にあることから、今後における文化財としての遺構保存が強く懸念される状態であることも窺えました。
 あくまでも今後よく調べてみないと分からないのですが、手元の資料が相当に限られているという事情もあり、別途古墳時代後期遺構との関連なども考慮してみる必要もあるのかも知れません。
 ★西側の標高311mの丘陵地帯を含めた再調査を試みたいところですが、遠方なのでそうそう出かけられません。ご覧いただいた方で関心をお持ちになった方がおいでになれば、その節はどうかよろしくお願いいたします。

( 2016/06/09 記述)
「築館」 ⇒ 画像クリックで拡大します
築館が所在する亀賀森神社の社叢
( 2015/10/19 撮影 )
訪城アルバム
「築館」の解説版ではなく、亀賀森神社祭礼の解説でした ⇒ 画像クリックで拡大します
「亀賀森神社境内の土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 富岡の唐傘行燈花火
 城跡に関する城址碑、標柱、解説版の類は全く無く、こちらの祭礼に関する標柱と解説版が設置されておりました。
 郡山市内には一定の遺構が現存する中世城跡も少なくないことからやむを得ないのかも知れませんが、一行でも表記してほしいところです。
凸2 亀賀森神社境内の土塁
 神社境内南側に位置している立派な土塁なのですが、社殿の配置と関連している様子が窺われ、この部分が本来の城跡に関するものなのかどうか少し迷います。

「亀賀森神社境内南側西端部の土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「亀賀森神社境内奥西側の土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 境内南西部の土塁
 このあたりまででしたら、神社そのものに伴う土塁で片づけられますが、よくよく観察してみますと手前側の土塁とは別に中ほどの樹木の後ろ側に更に西側から繋がる別の土塁ラインを読み取ることができます。
凸4 社殿裏西境内側の土塁
 この社殿奥の位置からも北側の土塁がさらに西側(画面左側)に延びているいることが分かります。

「築館の土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「亀賀森神社境内北側と土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 築館の土塁
 一般に元々の城跡の土塁と神社の土塁の区別がつきにくい場合が多いのですが、この築館に関しては神社境内とは別の土塁が社殿奥の社叢部分に明確に遺されていました。
凸6 神社境内北側と土塁
 手前の鉤の手となっている土塁とは別にその奥の方にもう一つの土塁が見えます。

「築館の土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「築館の土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 築館の土塁と廓
 神社境内の裏手に立って、西側の社叢(植林部分)を木立越しに凝視すると郭を全周州している土塁が明確に目に入ります。これほど明確な城郭遺構なのですが、一般にはそれほどは知られてはいないようです。
凸8 築館東側の土塁
 画像4に掲載した亀賀森神社境内裏の土塁部分を西側から撮影したもので、こうしてみると実は城跡土塁そのものであることが良く分かります。

「築館の土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「築館の土塁」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸9 築館南側の土塁
 
凸10 築館東側土塁遠景
 

「築館の北側空堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「築館西側空堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸11 築館の北側空堀
 10月中旬でしたので些か藪が目立ち、足元も軟弱なため歩き回ることができませんでしたが、この空堀は東側神社境内の入口近くまでやや幅を狭めて続いているようです。
 空堀の深さは郭側で最大7m、外側で最大4mの規模を有しております。
 亀賀森神社の小さな丘陵からは想像できない最大幅15m近い大規模な空堀です。
凸12 築館西側空堀の謎の地形
 山城ならば堀切に相当する形状なのですけれども、比高差数メートルほどの低丘陵の土塁を断ち切ったようにして城外へと通り抜けられるようになっておりました。
 この西側には水田が耕作されていることから、ことによると空堀の一部はこれに伴う排水池として利用されているのかも知れません。見かけは小口形状をしていますが、防御性は大きく低下し郭内へのルートも不明です。

「築館西側の空堀」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「築館北側土塁の外側」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸13 築館西側の空堀
 画像左側が郭の土塁から続く切岸で、その高さは約7m、右側の外側では約4mの高さを有していました。
 高さ7mの切岸を下るときには木の枝などに掴まらないと危ないほどの傾斜もありました。
凸14 築館北西側土塁の外側
 元々の自然地形である丘陵の小山を利用しているものと考えられますので基本的には丘陵麓の斜面というように見ることもできます。

「築館北西側土塁の外側」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「築館北西側土塁の外側」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸15 築館北西側土塁の外側
 丘陵地形を利用していることがよく分かる丘陵北側部分のラインです。
凸16 築館北側の様子
 築館の北側に沿った公道部分から東方向を撮影したもので、公道の奥、つまり東方向に向かって丘陵自体も低くなっています。

「築館西側遠景」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「築館西方の丘陵」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸17 築館西側遠景
 現在の地形からは窺い知ることはできませんが、城郭として機能していたであろう400年以上前の当時において、この手前の水田の辺りが一体どのような使われ方をしていたのかについてもとても気にかかります。
 この水田を含めて西側の丘陵とこの亀賀森神社の丘陵の距離は約50mほどですが、現在は南北に公道が通過し1軒の民家も所在しています。
凸18 築館西方の丘陵
 築館の遺構が確認できる東側には最高点の標高311mの丘陵が存在しているのですが、生憎丘の上は藪が広がりこちら側からアプローチできるようなルートは見当たりませんでした。
 水田の畔とは別のその上に見える長大な法面のように見える地形が、耕作地整備などによるものなのかどうかも気になり、この丘陵一帯も字築館に含まれています。

「築館の南西方向から」 ⇒ 画像クリックで拡大します
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸19 築館南西側遠景
 築館の南西方向からやや引き気味に撮影したもの。
凸20 築館南西側から
 築館の南西方向からの様子。

「南西方向からの築館」 ⇒ 画像クリックで拡大します
出来の悪い「築館概念図」です ⇒ 
凸21 南西方向からの築館 
 手前の公道を通って画像右奥へ進んでいくと、隣接している白山館南側の崖線部に到達します。
 また、築館南側には4軒ほどの民家宅地が近接しているため外側からの様子が把握できません。
凸22 出来の悪い概念図
 探訪した日から8か月近く経過していますので、だいぶ曖昧でおぼろげな記憶を頼りに作成しました。
 しかし6年ぶりに作成してみたところ、老眼がすすんで手元が殆ど見えず、しかも見事に描き方を忘れておりました^^
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 館名と所在地についての記述あり。
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) ⇒ 館名と所在地についての記述あり。
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) ⇒ この館についての記述は見られない。

郷土史関係等
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院) ⇒ この館についての記述は見られない。
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
 本書によると、富岡は戦国期から文献に登場する地名であり、天文10年5月20日付の田村義顕、隆顕連署証文に、富岡村の領主である富岡八郎の名が記されているという(伊達家文書/福島県史7巻)。また、天正13年10月24日付の蘆名亀王丸書状(富田文書雑集)には、「富岡打入□候」という、富岡に蘆名氏が攻め込んだ旨の記述があるとのことである。
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「河田左衛門尉祐義」の名が見られる。
「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。

史料
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 近世編纂の古城跡に関する記録である同書には、「富岡 富岡館」との記述はあるものの、この築館に関するような記述は一切見ることはできない。なお、その富岡館についても、その所在地は不詳である。
「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)
 ⇒ 同文書には富岡村については石高1442石余りという、当時としては決して少なくない所領であった旨が記されていることから、戦国時代には同地域においても少なくとも数十人くらいの軍事要員を招集することは可能であるのかもしれない。
 現存する空堀の規模は決して小さくはなく、一方では富岡地域の中心は歴史的にも本郷方面であることから、地域支配の拠点ということよりも軍事的要素の強い比較的規模の大きな二階堂氏、蘆名氏、伊達氏などの勢力により構築された可能性についても考慮したい。


その他
福島県文化財データベース「まほろん」 ⇒ 館名と所在地、およその遺跡範囲についての記述あり。
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。

・2016/06/09 HPアップ
トップ頁へ 福島県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動