福島県内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 福島県内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。 
福島県郡山市の目次へ戻る
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/07/29のブログ 日和田館
所在地
 福島県郡山市日和田町日和田
歴史、人物、伝承

15世紀前半頃までの安積伊東氏一族の館か
 国道4号線の東、約1kmほどの丘陵地帯に日和田館が所在しているが、下記の垣内氏の著書(「郡山の城館」)などによると、近年の発掘調査の成果などに基づき、安積伊東氏の一族が戦国時代に入りそれまでの拠点であったこの古館の地から、より防御性の高い日和田館に転じたものであろうとの説が提起されている。
 「相生集」によると、かつて日和田の地名については「部屋田」「部谷田」「戸谷田」「比谷田」「日谷田」などとも記したとされており、南北朝期の文和2年(1353)5月伊賀盛光軍忠状によると、南朝方の宇津峰城攻略に関連したものと考えられる「4月1日安積郡戸谷田御陣令進代官藤光」と記されているのが初見というが、その前年である観応3年(1352)11月22日の吉良貞家披露状に「田村庄凶徒対治之刻...於安積郡部谷田陣」(南朝方の田村庄司氏を攻めた際の文書)がある。( ⇒ 「角川地名大辞典7福島県」より)
 その後、有名な応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として、伊東氏の一族とされる「社谷田沙弥勝慶(部谷田沙弥勝慶)」の名が確認できるが、その居所が日和田館以前のこの日和田古館を指すものであるかどうかについては断定はできないらしい。
 江戸時代中期正徳年間に書かれた「奥陽仙道表鑑」(「三春町史第7巻資料編」より)によると、天正10年3月、畠山義国が当時田村方となっていた高倉城を再び配下におさめた際に、田村清顕との高倉城を巡る攻防が行われたが、この合戦は結局畠山氏方の勝利となり、その当時は田村方であった日和田の城主伊藤左衛門佐は降参して畠山方となったという記述があるものの、安積伊東氏の傍流と思われるこの一族に関するその詳細は不明である。

確認可能な遺構
 堀、郭など
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2015年7月29日 午前11時40分頃から正午頃まで
訪城の記録 記念撮影

 水を湛えた堀跡
 藤田川南岸の河岸段丘上に所在し、現状の表面地形からも水を湛えた堀跡とともに約50メートル四方の比較的小規模な方形館が想定され、南辺部分を除いた三方に堀の存在を確認できますが、縄張り全体として単郭かどうかについては分かりません。また北側の藤田川方面を除くと周辺は平坦な地形が続き、地形としての有利性を欠く城館であったことが窺われます。
 安積郡の有力領主であった伊東氏一族の居館であったことが推定されているようなのですが、傍証する史料はあるもののこの地を指すものであるのかについては断定はできないようです。
 なお、同所付近には字名を含めると南古館、尾無館、黒沢古館なども存在していたともされていますが、勉強不足のため今のところその時代背景、詳細な所在地などについてはほとんど把握してはおりません。
 この日は多分この正午前頃から次第に暑さが堪えはじめ、徐々に記憶がおぼろげとなっていったのでありましたが、おりしも東側の堀跡には白花の蓮が満開を迎えあたかも極楽浄土の盛夏を髣髴とさせるような景観が眼前に広がり、その後に訪れた近くの蓮池の公園風景と相俟っていまでも白日夢のような光景が蘇ります。

( 2016/08/29 記述)

日和田古館の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
北側の堀跡
(郭跡北辺部には土塁跡のようにも見えなくもない盛り上がりもありました)
( 2015/10/20 撮影 )
訪城アルバム
日和田古館の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
蓮の花 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 遠景
 南側の道路沿いから撮影したものですが、この風景だけを眺めているかぎりでは、上記のような明確な堀跡が残存していることを想像できませんでした。
凸2 蓮の花
 東側の堀跡では、折から蓮の花が満開でしたが、あまりの暑さのためでしょうか、この後の記憶が朦朧としきましたので、近くの公園で小休止し水分補給を行いました。
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) ⇒ 「古館」の名称で掲載あり
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) 掲載なし
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) 掲載なし

郷土史関係等
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
 ⇒ 日和田館は掲載されているがこの古館については掲載されていない
「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している40か所の城館跡について略述し、この日和田古館についても略述され、堀跡についてはかつては空堀であったこと記している。
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店) 日和田をめぐる中世古文書に関する記述がある。
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「社谷田沙弥勝慶(部谷田沙弥勝慶)の名が見られる。
「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた中世の政治動向などが割愛されている部分もある。

史料
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 「奥陽仙道表鑑」の記述と同様の、日和田館に関する天正10年の記述はあるが、古館に関するものは見られない。
「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)

その他
福島県文化財データベース「まほろん」
 ⇒ 「日和田古館」の名称で掲載あり(ただし示されている遺跡の範囲は南古館を中心とした地域であり、この日和田古館を含んではいない)
郡山市役所公式HPから「埋蔵文化財包蔵地マップ」
 ⇒ 「日和田古館」の名称で掲載あり(南古館、日和田古館を含む広範な領域を示している)
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究し、この日和田古館についても約50メートル四方の方形館であること、部分的な発掘調査により建物柱穴、14世紀から15世紀前半の遺物が出土した旨の記述が見られる。(「日和田古館跡」1996ほか)
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。


・2016/08/29 HPアップ
トップ頁へ 福島県内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動