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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2015/10/20のブログ  
所在地
 福島県郡山市日和田町日和田字舘
歴史、人物、伝承

安積伊東氏一族の館跡か
 国道4号線の西、この日和田館から西へ約1kmほどの地点に日和田古館が所在しているが、垣内氏の著書(「郡山の城館」)によれば安積伊東氏の一族が戦国時代に入りより防御性の高いこの地に転じたものであろうという説を提起されている。
 このほか応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「社谷田沙弥勝慶(部谷田沙弥勝慶)」の名が見られるが、その居所が日和田館以前の日和田古館を指すものであるかどうかについては断定はできない。
 江戸時代中期正徳年間に書かれた「奥陽仙道表鑑」(「三春町史第7巻資料編」より)によると、天正10年3月、畠山義国が当時田村方となっていた高倉城を再び配下におさめた際に、田村清顕との高倉城を巡る攻防が行われた。この合戦は結局畠山氏方の勝利となり、その当時は田村方であった日和田の城主伊藤左衛門佐は降参して畠山方となったという記述があるが、安積伊東氏の傍流と思われるこの一族に関するその詳細は不明である。

確認可能な遺構
 空堀の一部土塁の一部
このほか館跡の西方約150mの館集会所西隣市道沿いに安積左衛門供養塔があり、供養塔の解説板が設置されているが詳細な館跡の記述はみえない。
文化財指定
 なし
訪城年月日
・2015年 7月30日 12時30分から12時45分頃まで
・2015年10月20日 
12時50分から13時15分頃まで
訪城の記録 記念撮影


 できれば真夏は避けたい
 刊行年次の新しい 「郡山の城館」(垣内和孝著/歴史春秋社)によれば南側を中心にして方形館に伴う堀跡、土塁、土橋などの遺構が良好に残されている旨が記されています。
 東北本線日和田駅北西に位置する丘陵東端部に所在し、その山林の様子からはある程度は明瞭な区画をなしているであろうことが窺える現状なのですが、7月下旬という盛夏ゆえに入り込むのが困難なほどの藪になっていました。このため、周囲から様子を観察したのみで撤退することにしました。
 ここは捲土重来を期すとしたいところなのですが、そろそろ果たして再訪の機会が残されているのか些か心もとない年代となってきたようです。

 秋でも変わらず
 3か月前の2015年7月に続く再訪です。今回は前回当たりをつけておいた南側の踏み跡から藪に入り込み、空堀を越えて郭内に入りました。前回は確認できなかった東と南側の堀跡などを踏み込める範囲内で確認した後に、郭の規模も小さくわずかな距離であったことからそのまま北側の農道まで縦断してみると予想以上にあっけなく通過できました。
  もっともこの際に、ノイバラとアズマザサの類に衣服を絡めとられたりして進路を阻まれ、その当時愛用していた4色ボールペンを紛失するという不運に遭遇しましたのである程度のリスクはあるようです。
 このため再度藪の中に戻り地形の再確認をしようとするという気力を消失して、そのまま退散するという羽目に陥りましたが、こうした植生ではたぶん真冬でもあまり変わらない状況ではないかとも思われました。
 麓の平地からの比高差は目測で約10メートルほどを測りますが、周辺部は宅地化や耕地整備などにより大きく変貌を遂げていることもあり、当時の城域を想定することは難しい状態となっていました。

( 2016/08/04 記述)
日和田館遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
西側の農道から眺めた日和田館
( 2015/07/20 撮影 )
訪城アルバム
館集会所 ⇒ 画像クリックで拡大します
安積左衛門供養塔 ⇒ 画像クリックで解説版の拡大画像へリンクします
凸1 館集会所(2015/07/30撮影)
 「字名」がそのまま集会所の名称となって、かつての館跡の所在を如実に物語っておりました。
凸2 安積左衛門供養塔解説板(2015/07/30撮影)
 安積左衛門の供養塔と伝わる五輪塔とその現地解説板です。詳しい経緯は画像クリックしてご覧ください。

安積左衛門供養塔(五輪塔) ⇒ 画像クリックで拡大します
西側からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 安積左衛門供養塔(2015/07/30撮影)
 供養塔の現状は画像のように左右2基が設置されているのですが、もともと安定のよくない石塔ゆえの脆弱さに加え、一部後世の宝篋印塔の部材も含まれているようでした。印象としては左側のものの方がやや古そうに思われました。
凸4 西側からの遠景(2015/10/20撮影)
 切岸のようにも見える斜面は後世の水田開発などによる区画形質の変更である可能性が考えられ、果たしてどこまでの範囲が館跡だったのかを窺い知る術は見つかりそうにありませんでした。

北側部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
南側からの入口 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 北側部分(2015/10/20撮影)
 この先の辺りから遺構のある画像右側の山林内へ入れなくはないのですが、空堀内を進むと足をとられたり、郭内ではノイバラに引っかかれたりというような目に遭いますのでくれぐれもご注意願います。
凸6 南側からの入口(2015/10/20撮影)
 この個所から入るのが比較的安全なのですが、むろん私有地の山林と思われますので、不審者と誤認されないように近くに地元の方がおいでの際には、必ず一言お声掛けしてから拝見すべきであることは言うまでもありません。

この辺りが南東角付近の堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
堀幅は上面で約4mほど ⇒ 画像クリックで拡大します
凸7 堀跡南東付近(2015/10/20撮影)
 目標物を選択的に捉える肉眼ではもう少しはっきりと見えるのですが、バカ正直なデジカメではこのような具合に写ります。この東側の堀跡は堀底に数十センチほどのかなりの高低差(おそらく出入り口としての「土橋」なのかも)がある部分がありますので、怪我の無いようにそれなりの用心も必要です。
凸8 南辺の堀跡(2015/10/20撮影)
 南辺の空堀の堀幅は約4mほどと東側部分の7mに比べて明らかに狭くなっていますが、この状態が当時からのものであるのかどうかについては不明です。
 堀底は降雨後でなければ歩けますが、木の枝を避けながら進まなくてはなりませんがかなり足元も見づらい状態になっておりました。
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「北海道・東北地方の中世城館 4 岩手・福島」(2002/東洋書林) 
 ⇒ 「城館一覧」に城館名と安積左衛門の居館である旨などが掲載されてはいるが、記述として見るべきものは少ない。
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
 ⇒ 「城館一覧」に掲載されてはいるが、記述として見るべきものはさらに少ない。
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) ⇒ 記述なし。

郷土史関係等
「会津・仙道・海道地方諸城の研究」(1980/沼舘愛三編著/伊古書院)
 ⇒ 戦後間もない時期の労作であるが、この日和田館に関する記述は群を抜いて詳細であるので、以下にその要点を転載した。
 日和田の地名表記については、「観応期の申状には「部屋田」あるいは「戸谷田」とも記され、その後の応永の連判状では「部谷田」、和名抄郡郷考には「檜和田」を記した」という。館地は「日和田東側の丘陵の末端を利用したもので、比高20mの台地で東西約120m、南北約80mの一郭とその西方に東西約80m、南北約70mの一郭址」が見られた。また「当時は土塁があったであろう土塁の断片と堀跡の痕跡も見られる」とし、「往時は沼に囲まれた台地の先端で、東南北の三面は沼地に臨み西方台地の尾根上には掘割があり要害の地であったと思われる」としている。
 仮にこの記述が著者が調査された戦後間もない時期における城館跡の様子を正しく伝えているものであるとすれば、現在残されているような単郭構造ではなく、少なくとも複数の郭から構成される城館であったということになろう。

「郡山の城館−歴春ブックレット安積2」(2015/垣内和孝 著/歴史春秋社)
 ⇒ 地方紙である福島民友に2013年から2014年にかけて連載されていた記事を基に編集されたもので、安積地域に所在している40か所の城館跡について略述した、郡山地区の中世城館に詳しい地元研究者の著作である。
「角川地名大辞典7福島県」(1981/角川書店)
「郡山の歴史」(旧版 2004/郡山市) 
 応永11年(1404)の安積伊東氏一揆連判状では、この地に関連している人物として伊東氏の一族とされる「社谷田沙弥勝慶(部谷田沙弥勝慶)」の名が見られるが、その居所が日和田館以前の日和田古館を指すものであるかどうかについては断定はできない。また、「積達古館弁」などからの引用した中世の館のひとつとして「日和田(所在地) 日和田館(城館名) 伊藤左衛門佐(城館主)」という記載があるが、その詳細な記述については割愛されている。
「郡山の歴史」(新版 2014/郡山市)
 近年における発掘調査の成果などを含むが、旧版で収録されていた市内の城館跡一覧や中世の政治動向などが割愛されている部分もある。
「郡山市史第1巻通史編」(1975/郡山市)
 奥陽仙道表鑑から引用した戦国期安積郡の城主の一人として、「日和田城主 伊藤左衛門」の名が記されている。

史料
「積達古館弁巻ノ五安積郡」(「郡山市史8資料編」より)
 「日和田村日和田舘 里老伝に伊藤左衛門佐の城と云々」との記述があるが、この内容は「奥陽仙道表鑑」の「高倉軍之事」からの引用であると思われる。
「奥陽仙道表鑑」(「三春町史第7巻資料編」より)
 ⇒ 天正10年3月、畠山義国が当時田村方となっていた高倉城を再び配下におさめた際に、田村清顕との高倉城を巡る攻防が行われた。この合戦は結局畠山氏方の勝利となり、田村方であった日和田の城主伊藤左衛門佐は降参して畠山方となったという。(この記述について、管見では同時代史料には見られないことから、この正徳年間にまとめられた軍記物の記述を掲載してみました)
「文禄3年(1594)蒲生領高目録」(「郡山市史8資料編」より)

その他
福島県文化財データベース「まほろん」
「室町期 南奥の政治秩序と抗争」(2006/垣内和孝 著/岩田書院)
 ⇒ 篠川・稲村公方に関する論考に始まり二本松氏、塩松石橋氏、、二階堂氏、岩城氏、芦名氏、白川結城氏・小峰氏、田村氏、伊東氏・相良氏の15世紀から16世紀の動向を詳細に記述するとともに、これらに関連する中世城館等についても概括的に論究している。
 このほか伊東氏をめぐるその系譜と伊東氏の主たる領地である安積三郷(五百川以南で藤田川以北の上郷、藤田川以南逢瀬川以北の中郷、逢瀬川以南笹原川以北の下郷) の同氏の支配関係を考察する論考も掲載されている。


・2016/08/04 HPアップ
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