凸須田氏本拠地和田城の古城 戦国時代末期岩瀬郡を中心に勢力を伸ばした戦国大名二階堂氏の重臣、須田美濃守盛秀の居城和田城の古城です。無論全国的に著名な伏見城とは全くの別物で、「伏見」の名称は小字名から呼称された模様で別名を「峰ヶ城」とも。鎌倉時代の建久元年(1190)に、源頼朝の奥州藤原氏征服に随身した須田美濃守秀範が築城したと伝わるとのことです。 阿武隈川の流れが北から東へと90度に湾曲する位置に所在し、水面からの比高差は少なくとも50mほどはありそうに思われます。東西に細長い和田城の丘陵地帯とも地形的に隔絶されていますが、何分にも東西約200メートル、南北約80メートルと狭隘であることは否めないようです。このこととあわせて須田氏の平地の居館からは直線でも1.2kmと些か遠いという事情などもあり、後の時代に集落の所在地により近い丘陵の東端部に移ったものと考えられます。
( 2008/07/06 ) 凸 偶然..写り込んで 実のところ意識して撮影したわけでもなんでもなく、正直に申し上げればただ単に市野関館の西側で大きく蛇行する阿武隈川の豊かな流れを記録しようとシャッターを押したまでのことであります。それが証拠に当日のブログには全く記載されてはおりません。 その後HPの更新と並行して、須賀川市の中世城館を詳細に調べ始めて二階堂氏重臣須田氏の本拠地である和田城の古城、伏見城(別名を峰ヶ城)であることに気が付いたような次第です。このため画像は僅かにこの一枚のみで、明らかに被写体は阿武隈川の流れを意識したものとなっております。また当然の事ながら遠望したのみで、現地には赴かず遺構有無を含む詳細については全く確認しておりません。 福島中通り方面は早ければこの秋にでも再訪する予定ですので、備忘録代りにHP更新を行うことといたしました。とはいうものの明らかに手抜きの数稼ぎという意図が丸見えのようにも...(大汗)
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