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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2017年10月5日のブログ 東矢島城 
所在地
 群馬県太田市西矢島町
歴史、人物、伝承

矢島氏と林氏
 「日本城郭大系4」によると、その城館一覧表に「矢島城 太田市東矢島 林越中守高宗が在城、遺構はほとんど認められない」との記載があり、「日本城郭全集3」においても「矢島城(※東矢島城の表記ではない) 太田市東矢島(※所在地表記は矢島、或いは西矢島ではない) いまの神社のところであるが、その遺構は全く不明である。新田政義(※新田義重から3代後、新田義貞からは4代前)の三男三郎信氏がここに館を作って矢島氏(※諸系図では谷島とも)を称した。矢島七郎安高は金ケ崎で善戦し落城直前、船田経政ら3人と共に脱出し・・・(中略) 由良氏のころ、矢島城主であった林越中守高宗は由良の長臣で・・・(以下略)」と記されているものの、これはどうも東矢島城について記しているもののようにも思われる。
 次に「太田市史通史編中世」の第1節中世城館跡によれば、西方の西矢島に所在する矢島城の説明として「新田太郎政義の三男谷島三郎信氏の居る処なり、別に西、東の矢島村あり」(※「上野国志」の刊本ではこの下線部分の記述はない。下線部分の記述はおそらく原書もしくは「写し」における加筆部分であろうと思われる)との「上野国志」の記述を引用し、前半部分については「境町」(※現伊勢崎市に合併)の上矢島のこととした上で、末尾のアンダーライン分については「西矢島村内に所在している東西2か所の郭跡に比定」し、「西矢島村」(※現太田市西矢島町)を指すものであろうとの解釈をしている。また後の由良氏時代に林越中守高宗がいたとされる矢島城については当地太田市内の西矢島に所在するこれら2か所の環濠屋敷の関わりが深いことを示唆している。
 しかし、「角川日本地名辞典群馬県」の矢島村、東矢島村の項が「その比定地を東矢島村であろう」としていると示唆していることからも、あくまでも「東西の村落の存在について触れているものである」と理解すべきであろうと考えられ、あくまでも「西=西矢島村、東=東矢島村」と解釈した方が遥かに自然であるように思われるのだがどうであろうか。

確認可能な遺構
 消滅
 ※館跡は赤城神社の東西に2か所の環濠屋敷が認められたというが、現在ではその何れもが地表上から確認することは困難となっている。ただし西の環濠屋敷の区画の一部は現在の道路の位置に合致している。
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2017年10月5日 11時00分から11時20分
訪城の記録 記念撮影

 東西の環濠屋敷
 「太田市史通史編中世」の697頁から698頁にかけての記述によりますと、国道354線と国道407号線が交差する「西矢島交差点」の北西部に所在し、赤城大神宮を挟んだ東西2か所に方形の城館跡(環濠屋敷址)が存在していたことが環濠跡の略図付で記されています。
水路を挟んで西側のものは方70mほどの規模で現在は概ね宅地化されてはいますが、一部に畑が残っており、その東部分には曲折した細道がありかつての環濠の位置に概ね合致しているものと思われます。
水路東側の方は概ね工場敷地の一部と化していますが、赤城神社の社殿に掲示されている神社縁起によりますと、「この境内も城館跡である」との文言が記されていますがその事実関係については分かりません。また「上矢島城」(旧境町、現伊勢崎市)の存在、「東矢島城」の存否などを含めややこしいものがありました。
( 2017/10/31 )記述
赤城神社境内 ⇒ 画像クリックで矢島城に関する記述がある神社の縁起リンクします
矢島城(赤城神社境内) −画像A−
( 2017年10月5日 撮影 )
訪城アルバム
西側部分 ⇒ 画像クリックで拡大
西側部分 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 西側部分
 環濠の東隅付近の様子で、環濠の切れ目(虎口)に相当する辺りになるのかも知れません。。
凸2 西側部分
 環濠の東側の切れ目部分に相当する辺りの様子を南側から撮影したものです。

南の別郭付近とも考えられている辺りの様子 ⇒ 画像クリックで拡大
八瀬川 ⇒ 画像クリックで拡大
凸3 別郭
 「太田市史通史編中世」の記述では「南の別郭」の存在を示唆していますが、同書や航空写真などの情報から勘案しますと、画像中央の道路右側(向こう側)の辺りがこれに相当するのかも知れません。
凸4 八瀬川
 2つの環濠屋敷を分かつ八瀬川の流れ。八瀬川の河川改修(流路の直線化)は戦前以前の比較的早い時期に行われていたようです。

赤城神社社殿 ⇒ 画像クリックで拡大
国土地理院航空写真 ⇒ 画像クリックで拡大
凸5 赤城神社社殿
 この赤城神社社殿の右奥に見える社叢とその奥の方に所在している工場の敷地部分(※上記画像A参照)が、東側の環濠屋敷が所在していた辺りに相当するものと推定されます。
凸6 国土地理院航空写真
 茶色の現在の国道407号線に相当する道路そのものは70年前の撮影以前より存在し、南北に流れる2本の水路に挟まれた地形を形成していることが分かりますが、今のところその水路が何時の時代から存在していたのかについては不明ですが、概ね八瀬川を挟んだ2か所の赤枠部分が、「太田市史通史編」などに記されている環濠屋敷が所在していた地点に相当するものと思われます。
交通案内


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凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬(「群馬県の中世城館跡1988」)」(2000/東洋書林)
「日本城郭大系 4」(1979/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史
「図説群馬の歴史」(1989/河出書房新社)
「史料で読み解く群馬の歴史」(2007/山川出版社)
「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「群馬県の歴史」(1997/山川出版社)
「新田一族の中世」(2015/吉川弘文館)
「新田三兄弟と南朝」(2015/戎光祥出版)
「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)
 鎌倉攻め際の「相模国 天野経顕軍忠状」(※「天野文書」)に新田矢島次郎の名があり、矢島氏は大舘家の庶子としてこの合戦に加わっていたものとされている。(109頁 )
「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「太田市史/通史編/中世」(1997/太田市)

■史料
「新潮日本古典集成 太平記 全5巻」(1990/新潮社)
 建武3年(1336)10月から翌年3月に起きた「金ケ崎城の攻防」において、落城の最中に矢島七郎が辛くも脱出した旨の記述が見える。
「日本城郭史料集」(1968/大類 伸 編集)  ※諸国廃城考、諸国城主記、主図合結記を所収
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
「上野資料集成」(1917/煥釆堂本店)  ※上野志、上州古城塁記、上毛国風土記、伊勢崎風土記を所収
「戦国軍記事典―群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「上野国志」(1974影印復刻/関東史料研究会)

■データベースほか
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース)
「国土地理院航空写真」⇒掲載されている航空写真について引用しこれを編集加工した

・2017年11月3日 HPアップ
・2019年6月27日 画像ズレ補正
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