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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  譲原堀の内 譲原堀の内 神流川の渓谷
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/03/16のブログ 真下城 
所在地
 群馬県藤岡市譲原字橋下
歴史、人物、伝承

真下氏の平時の居館か
 真下城に関係する居館跡として「堀の内」の地名が残るとのことで、この説は山崎一氏の調査研究によるところが大きいものと推測されるが詳細は不明。
 深いV字状の谷を形成する神流川の北岸に接した真下城の南麓の平坦地に所在しています。なお「譲原」の地名については、「ゆれる」「ゆする」を語源としてものという説があり、所謂災害の起こりやすい地名のひとつとも捉えられており、この神流川地域にも「地滑り」の多い傾向が見られるとのことである。

確認可能な遺構
 堀跡?
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年3月16日、3月29日
訪城の記録 記念撮影

 文明年間の板碑も
 「堀の内」の地名が残り、南北に水路が残された文明元年の紀年銘のある板碑の北側付近一帯が該当地であるものと推定されます。なお真下城の山裾には立派な櫓門を備えた旧家が所在しております。また真下氏の子孫の方が鬼石市街にお住まいであることは関係資料にも掲載。しかし未だに、こちらの旧家と真下城との関係は不明のままなのであります。
 一方藤岡市の指定文化財である文明の板碑については、文明元年8月(1469)の建立によるものとされ一揆により滅亡した横田一族の供養を目的とすると伝わるといわれています。無論一揆とはいっても近世の百姓一揆を意味するものではなく、恐らくは南北朝期から室町期にかけて活動した在地武士階層の上州白旗一揆等を指すものとの考えられますが、これもまた相変わらずの不勉強のために憶測のままなのであります。

( 2008/12/19 )記述
「譲原堀の内」近くの文明年間の板碑⇒ 画像クリックで拡大します
「譲原堀の内」近くの文明年間の板碑
( 2008/03/16 撮影 )
交通案内

・真下城の南麓

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
■郷土史・歴史関係
「多野藤岡地方誌」(1976/同編集委)・「鬼石町誌」(1984/鬼石町)
「群馬県多野郡誌(1927刊行の復刻本)」(1994/春秋社) 「角川地名大辞典10群馬県」(1988/角川書店)

■史料
 なし
■その他
「群馬県文化財情報システム」(文化財データベース)⇒掲載なし
「地名は警告する」(2013/冨山房インターナショナル)
「あぶない地名」(2012/三一書房)

・2008/12/19 HPアップ
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