凸芦田氏父子による築城と伝わる 永禄11年(1568)、甲斐武田氏の先鋒として西上州に進出した芦田信守が浄法寺城(三ツ山城とも)を拠点としていた当時、嫡子である依田信蕃に縄張りを命じたとされている。武蔵の後北条氏勢力を意識し神流側のラインを防御するために築城されたが、同年武田信玄が甲相駿の三国同盟を崩壊させ今川氏領国の駿河侵攻を開始した。しかしこの合戦により信蕃らが出陣したために根岸築城はその普請の半ばで放棄されたといわれている。 神流川左岸の比高差約3mほどの河岸段丘上に所在し、玉泉寺を南東角とする方形と推定されているが、その北側および西側の範囲については説が分かれるという。 (⇒「藤岡市史資料編」より)
( 2008/11/29 ) 凸 2日合わせて17か所目の締めくくり 武田信玄家臣の依田氏により築城されたとされる遺構。 発掘調査により堀跡遺構が検出されたのは国道254線のバイパス付近。とはいえ堀の内という地名が残る辺りも既に宅地化されて面影は無く、強いてあげれば丘陵の東側の水路沿い付近の比高差3mほどの崖線の様子が最もそれらしい景観を残しておりました。 この日は日は夕刻の天候にも恵まれ、この時点で日没までは少なくともあと2時間ほどの余裕もあり、予め持参していた吉井町方面へと足を伸ばすという選択肢も。然しおよそ4ヶ月のブランクに加えて、手術後の足回りの余力は2日連続の城館めぐりのため既に限界に達しておりました。 このため早々に撤収を決断し、旧児玉町の市街へと赴き念願の「銘菓保己一最中」(12個入)を購入。梅月堂謹製のこの最中は、旧児玉町出身の群書類従編纂で名高い塙保己一に因んだ銘菓。群馬、長野方面へと向かう道筋に所在する国道254線沿いの野立看板を見てから早40年以上の歳月が経過。 また最近その存在を知りえた黒沢謹製の「児玉党(最中)」も駅前通にて購入。 かくして恰も「最中」尽くしとなってしまった趣の手土産を携えて自宅へと帰還したのであります。
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