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群馬県藤岡市の城館索引へ戻る  根岸築城跡 根岸築城跡
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/10/21のブログ 藤岡城
所在地
 群馬県藤岡市小林字堀之内234から239、241付近
歴史、人物、伝承

芦田氏父子による築城と伝わる
 永禄11年(1568)、甲斐武田氏の先鋒として西上州に進出した芦田信守が浄法寺城(三ツ山城とも)を拠点としていた当時、嫡子である依田信蕃に縄張りを命じたとされている。武蔵の後北条氏勢力を意識し神流側のラインを防御するために築城されたが、同年武田信玄が甲相駿の三国同盟を崩壊させ今川氏領国の駿河侵攻を開始した。しかしこの合戦により信蕃らが出陣したために根岸築城はその普請の半ばで放棄されたといわれている。
 神流川左岸の比高差約3mほどの河岸段丘上に所在し、玉泉寺を南東角とする方形と推定されているが、その北側および西側の範囲については説が分かれるという。
                                        (⇒「藤岡市史資料編」より)

確認可能な遺構
 地表上は無(バイパス建設に伴う堀跡の発掘あり)
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年10月21日
訪城の記録 記念撮影

( 2008/11/29 )
 2日合わせて17か所目の締めくくり
 武田信玄家臣の依田氏により築城されたとされる遺構。 発掘調査により堀跡遺構が検出されたのは国道254線のバイパス付近。とはいえ堀の内という地名が残る辺りも既に宅地化されて面影は無く、強いてあげれば丘陵の東側の水路沿い付近の比高差3mほどの崖線の様子が最もそれらしい景観を残しておりました。
 この日は日は夕刻の天候にも恵まれ、この時点で日没までは少なくともあと2時間ほどの余裕もあり、予め持参していた吉井町方面へと足を伸ばすという選択肢も。然しおよそ4ヶ月のブランクに加えて、手術後の足回りの余力は2日連続の城館めぐりのため既に限界に達しておりました。
 このため早々に撤収を決断し、旧児玉町の市街へと赴き念願の「銘菓保己一最中」(12個入)を購入。梅月堂謹製のこの最中は、旧児玉町出身の群書類従編纂で名高い塙保己一に因んだ銘菓。群馬、長野方面へと向かう道筋に所在する国道254線沿いの野立看板を見てから早40年以上の歳月が経過。 また最近その存在を知りえた黒沢謹製の「児玉党(最中)」も駅前通にて購入。 かくして恰も「最中」尽くしとなってしまった趣の手土産を携えて自宅へと帰還したのであります。

「根岸築城跡」の東側崖線 ⇒ 画像クリックで拡大します
根岸築城跡の東側崖線
( 2008/10/21 撮影 )
訪城アルバム
発掘により堀跡が検出された付近
城跡の南限とされる付近
凸1 発掘により堀跡が検出された付近
 国道254線バイパス高架橋の手前の黄色のライン付近が堀跡が検出された辺りと推定されます。
 ただし「藤岡市史資料編」の解説によりますと、根岸築城跡との関連についてはあくまでも比定の域をでるものではないようです。
凸2 築城跡南限とされる付近
 山崎一氏作成の縄張り図等によりますと、この玉泉寺境内南側に所在するやや道幅の狭い公道が築城跡の南限と推定されています。
 同縄張り図にはこの道路自体が堀跡とされ、境内寄りには土塁状の地形が示されておりますが、その現況からは何とも言い難い状況でありました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)

■郷土史・歴史関係
「藤岡市史 資料編」(1993/藤岡市)
「藤岡市史 通史編−原始・古代・中世」(2000/藤岡市)
「藤岡市の歴史年表」(1996/藤岡市
「藤岡地方の中世史料」(1988/藤岡市)・
「角川地名大辞典10群馬県」(1988/角川書店)

■史料
■「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ⇒上毛古城塁址一覧を所収

■その他
「群馬県文化財情報システム」(文化財データベース)

・2008/11/12 HPアップ
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