凸 兎の次は亀の如き歩み
「兎貝戸の砦」からは芳賀中学校の東側の道を真っ直ぐに北上して小坂子城へと向かいました。このルートも僅か600m足らずの至近距離ではあるものの、進行方向は赤城山の山頂方面のため比高差約20mの緩やかでも、加齢と運動不足の身には結構足回りに響く坂道なのでありました。
先ずは城域の南端部でもある台地先端に鎮座する小坂子八幡神社にてこの日何回目かの初詣祈願。そういえば正月を挟み滋賀県甲賀地方の遠征以来約40日ぶりに出かけたこともあり、常時携行アイテムである賽銭用の小銭入れを自宅に忘れてくるというような有様でした。城跡へはこの八幡神社の参道から入り境内地を東側に抜け、東側の崖線に沿った農道のような細道を北へと向かいそのまま県道34号線まで歩くというルートをとってみました。
ひとつ前の兎貝戸の砦と同様に東側の防御線は大神川の崖線部となっているものの河岸段丘としての段差は小さく、天然の濠とはいえ明らかに防御性が不足しているという感は否めません。また、この辺りからは対岸の「出城」ともいわれる南北に細長い林が目に入りますが、その後の宅地化や耕作などによりその面影は感じられませんでした。
一方、主郭付近には土塁跡も残されているらしいのですが、生憎と宅地内の裏手辺りらしいことから直接目にすることはできませんでした。出城付近の様子を県道から一瞥したのち、県道を西へと引き返し、城跡西側の緩やかな市道の下り坂を崖線地形を観察しながら南下していきました。主郭とその南に続く城域を分ける堀切状地形の麓には小さな解説版が設置されていました。
ただし後世に埋め立てられたのか堀切としてはやや中途半端な印象もあり、当該解説板などと照合すると主郭南側の堀跡らしいことに気がつきました。そして、
さらに市道を南下していくと八幡神社境内へと登る階段があり、登りきった所には古びた木製の城跡標柱が所在しておりました。
この時点で日没までは未だ2時間ほどの余裕がありましたが、両膝の具合が変調を来してきたようにも感じていたことから、この日の探訪は終了することとして、この後は県立前橋図書館へと向かい、自治体史などの関係資料を300枚ほど複写。県立図書館を退出したのは午後5時前で、そのまま往路同様に上武道路経由で太田市内へと戻り、往路とは反対に深谷市−熊谷市−東松山市と経由して午後7時半頃に自宅に帰着しました。なお、この日の歩行距離は僅か20キロメートル足らずでしたが、この後は情けないことに足回りの養生と風邪などのため、約2か月余り行動不能状態に陥りました。
( 2019/1/21 )記述
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小坂子城の全景 −画像A−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸城跡の北東方向から撮影した「小坂子城」の全景ですが、往時は別として現状では城外との比高差がそれほど無く余り要害性があるようには見えませんでした。
小坂子城の現地解説板 −画像B−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸「兎貝戸の砦」に設置されているものと同様の形式のもので、下記の画像Cの個所に設置されていました。
小坂子城主郭南側の堀跡 −画像C−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸主郭南側の堀跡とされている通路で、通路の左側に城跡の解説板が設置されています。
国土地理院の航空写真画像 −画像D−
( 2019年1月20日 編集加工 )
凸当時の在日米軍により撮影された航空写真を編集加工したもので、「小坂子城」と書き加えた個所から右側に延びた直線の先端あたりが、概ね主郭の北側付近に相当するようです。
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