群馬県内の城館跡目次
トップ頁へ戻る 群馬県内の城館跡目次へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについてはご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。
群馬県の城館索引へ戻る 兎貝戸の砦 兎貝戸の砦のロゴ 兎貝戸の砦
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年1月16日のブログ 
所在地
 群馬県前橋市小坂子町兎貝戸868・869・881(「マッピングぐんま」より)
歴史、人物、伝承

経緯不詳、中世前期の館跡とも
 「群馬県の中世城館跡」の記載内容を読む限りでは、当該実地調査が行われた1980年代中頃くらいまでは、それなりに良好な状態の土塁を含む空堀などの遺構が現存していたものと思われる。 しかし現在は一面の畑(主郭)で、その東側(仮称「東の郭」)には休耕地のような平地が確認できるに過ぎなくなっていた。
 このため下記画像のような城跡の解説版が設置されていなければ、おそらくは所在地さえ把握できずにそのままスルーしてしまいそうな光景でもあった。「前橋市史第1巻」「日本城郭大系4巻」並びに現地の説明版によると、東西100m、南北60mの領域で東西に分かれた複郭であったことが記されている。南北にはそれぞれ民家が近接しており、その間の畑の一部が砦跡であったことだけは確認ができる。なお東側には大神川の小流がが南流し谷津田地形を見ることができ、その比高差は少なくとも5m前後はあるように見受けられた。
 「前橋市史第1巻」の記述では、その虎口の配置などから鑑みて中世前期の居館跡の可能性を示唆しており、確かに下記の航空写真画像から見る限りでは連郭式の簡易な構造であるように見受けられるが、遺物および確実な文献史料が殆ど存在していないことから、当時残存していた縄張りだけを以てして築城から廃城に至るまでの時代背景を類推することは難しいものと考えられる。
 また城館名については「前橋市史第1巻」と「現地解説板」では「兎替戸砦」(うさぎかいどのとりで)と表記しているが、「群馬県の中世城館跡」「日本城郭大系4巻」「日本城郭全集3巻」「マッピングぐんま」などの何れもが、「兎貝戸の砦」と表記していることからこれに従った。なお、「兎貝戸」は旧字名であるが、「角川地名大辞典」によればその漢字表記は「兎替戸」と記している。
 ※貝戸はこのほかに垣内、垣戸、開土、街道、海道などとも表記され、鎌倉期以降の豪族屋敷村にこの地名が多く見えるともいわれている。(「日本地名辞典」/新人物往来社)

確認可能な遺構
 郭跡(耕作地)、虎口、土塁、堀跡はほぼ消失
文化財指定
 なし/現地解説板あり
訪城年月日
 2018年1月16日 13時25分から13時40分
訪城の記録 記念撮影

 できるだけ歩いて回る
 極力路駐を避けるべく、車は芳賀公民館(図書館併設)に駐車させていただき、勝沢城からそのまま徒歩にて金丸川を渡り次の目的地である東側の兎貝戸の砦を目指しました。といっても、道程にして僅か600mほどに過ぎないのですが、この日は日の出前の早朝から行動を開始し、昼食抜きで移動を重ね、この時点で既に7か所目であったこともあり、それなりに足回りの疲労は無視できないものとなっていたようです。
 加えて高花台郵便局から芳賀中学校方面に向かう道は比高差は10mほどの緩やかな上り坂であったため、思いのほか時間を要することとなりました。この程度の緩やかな坂道に10分以上も要する自分にほとほと呆れてしまいました。確かに赤城山の南麓であることから、少しでも北寄りに道をとろうとしますと、必ず上り坂となるのですが地形図やナビ上からは殆ど読み取ることのできない情報であることを痛感しました。
 城跡自体は市の指定史跡では無いようですが、旧芳賀地区の城跡のなかにはこうした「現地解説板」が設置されており、初めて訪れるものにとっては大変有難く感じます。なお、この日の天候は朝方は気持ちの良い冬晴れの快晴であったのですが次第に薄雲が広がり始めてしまい、午後からはほぼ高曇りの曇天となっていましたが、このあとはいよいよ重くなった足を引きづりつつさらに500メートル北方の小坂子城を目指しました。
( 2019/1/19 )記述
兎貝戸の砦
兎貝戸の砦 −画像A−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸地形図や航空写真画像などから推定しますと、たぶん画像の一段高くなっている辺りが西側の主郭部分であったのでしょうか(城跡の南東方向から撮影)

兎貝戸の砦の現地解説板
兎貝戸の砦の現地解説板 −画像B−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸鳥の糞が付着していたので、所持していたティッシュペーパーで拭取ろうと試みたものの、ガチガチに固まっていたためこのような些かお見苦しい画像となりました <(_ _)>

兎貝戸の砦の航空写真画像
兎貝戸の砦の現地解説板 −画像C−
( 2018年1月16日 撮影 )
凸戦後間もない時期に当時の在日米軍により撮影された航空写真画像には明確に当該砦跡の形跡(おそらく堀跡か)が浮かび上がっており、特に主郭部の北辺付近には、虎口跡、土塁の形跡も写りこんでいるように見受けられます。

訪城アルバム
現地解説板など
凸1 現地解説板など
 主郭の南辺中央付近に設置されている現地解説版で、腐食などにより倒れている木材は旧芳賀町の自治会連合会が設置したと思われる古い文化財の標柱のようです。

仮称「東の郭」付近
凸2 仮称「東の郭」付近
 「前橋市史第1巻」などの記述では、東側の小河川との比高差を2、3メートルとしているのですが、現在のところ目測によりますと5メートル前後の急崖であるように見えました。
 なお、背景の山は赤城山方面です。

兎貝戸の砦の主郭付近
凸3 兎貝戸の砦の主郭付近
 城跡の北側から撮影したもので、概ね画像の右側の少し高い部分が主郭部分で、左側の低い部分が副郭(仮称「東の郭」)に相当するものと思われるのですが、南辺部の一部を除けば堀跡らしい形跡はほぼ失われているように感じました。
 なおかつて北西部に存在していたとされている稲荷社の祠も見当たりませんでした。画像右側の屋敷林の真下に「現地説明板」が小さく写りこんでいます。

北辺部の窪地
凸4 北辺部の窪地
 かつての「堀跡」の名残かどうかは定かではありませんが、いちおう浅い帯状の窪地がありました。

西側から
凸5 西側から
 城跡の西側から撮影したものですが、コンクリートブロック構造の位置がそのまま城跡の西端に相当しているのかどうかは分かりませんでした。もしも50代の後半でしたらこの1m程度の段差は簡単に乗り越えていたのですが・・・
 なお、画像右側の林は城跡南隣に所在している民家の屋敷林ですが、当該城館跡へ直接向かう道は見当たりませんので、この南側の民家へと向かう私道のような所を通り抜けさせていただいて見学するのが無難かもしれません。むろんそうした場合には「通行する旨の了解」が必要なことは言うまでもありませんが。
交通案内


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「前橋市史第1巻」(1971/前橋市)

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もある。
前橋市公式HP


更新記録
・2019年1月19日 HPアップ
トップ頁へ 群馬県内の城館跡目次へ この頁の最上段へ移動