群馬県内の城館跡目次
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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2018年4月19日のブログ 白井城 
所在地
 群馬県渋川市村上北塩川(作間神社境内及びその周囲)
歴史、人物、伝承

白井長尾氏領
 岩井堂周辺部は戦国時代末期は、山内上杉氏、後北条氏、越後上杉氏、甲斐武田氏ないし真田氏など上位権力の変遷はあるものの、ある時期白井長尾氏の支配するところとなっていた要素も少なくはない。よって長尾氏の本拠でもあった白井城の支城としての役割を担っていた時期もあるのかも知れないとも考察されるのだが、果たしてこの「古城台の城」自体が、戦国時代末期まで城館として利用されていたかどうかについては不明であるらしい。
 「古城台の城」については「日本城郭全集第3巻」の記述によれば、「岩井堂の砦から東500mの作間神社は古い館址である。延暦(785)ころ、村上平太の城と伝えられている。」と記されている。また「日本城郭大系4」によると「山田為村・村上平太の館。作間神社が館跡。単郭」と記されている。
 何れしても、これらの記述では余りに心許ないと言わざるを得ないものを感じるが、戦国期以前の古い館跡と考えるのが妥当であるのかも知れない。従って、「加沢記」などに登場する戦国期の岩井堂の戦いなどについては、地理的に見れば近接する関係にはあるものの、その攻防をめぐってはあくまでも直接の関係は無かったものと考えるべきなのだろうか。

◎名称について
 なお、岩井堂城あるいは岩井堂の砦の伝承などが混ざり合いその名称なども混乱しているように見受けられるので、概ね次のように整理した。
 先ず当該名称については、「古城台の城」とするものは「日本城郭全集第3巻」であり、このほか「古城台」とするものが「群馬県の中世城館跡」で、別に「古城台館」とするものが「群馬の城」「日本城郭大系4」「上毛古城塁址一覧」(※この4点はいずれも山崎一氏の執筆である)がある。なお「マッピングぐんま」では「古城台の館」として掲載されている。

確認可能な遺構
 土塁?堀跡?石積み?
 ※ただし「群馬県の中世城館跡」は遺構として「土塁」「石垣」を記している。
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2018年4月19日 8時30分から8時55分
訪城の記録 記念撮影

 作間神社境内
 「古城台」の名の通りの小さな台地地形となっています。「群馬の中世城館跡」の報告書等を参照する限りでは、作間神社境内が城館跡と推察され、同所には現在でも神社境内北辺部に東西方向の堀跡状の地形などを確認することができますが、城館遺構との関連についてはよく分からないというところが正直な感想です。
 またその更に北側には、高さにして2メートル以上の畑との段差が所在し、北西部の角付近には石積みのようにも見えなくもない普請が為されておりました。むろんこれらの人工的な地形については近世以降の神社普請、宅地、耕地整備などにより行われた可能性も想定されますが、「古城台」の字地名が伝わっていることを考慮に入れますと、中世城館跡との関連性が想定されるようにも思われたりいたします。
 作間神社の境内地からは概ね間口約60m、奥行き約70mほどの幾分小規模な方形館の存在が想定されますが、鎌倉期など戦国時代以前のやや古い時代のものであるのかも知れません。
 なお、この周辺にはこの古城台の城のほかに、岩井堂の砦(峻険な岩山)、岩井堂城などが所在していることから、城館名の混乱を感じてしまいます。また、当地は岩井堂の砦が所在する岩峰の全景撮影には恰好の撮影ポイントともなっていました。
( 2018/12/16 )記述
古城台の城
古城台の城 −画像A−
( 2018年4月19日 撮影 )
凸作間神社境内の北側に刻まれている溝状の地形です。幅約2.5m、深さ最大1.5m、長さ約70mほどの規模ですが、むろん堀跡にしては些か幅が狭く感じられることから、画像右側の山林部分と境内地を区画する溝(境堀)である可能性も考えられます。

古城台の城の北側
古城台の城の北側 −画像B−
( 2018年4月19日 撮影 )
凸画像左側が作間神社側で、画像右の低地は耕作地となっています。念のため何時ものように、この辺りの様子が国土地理院の古い航空写真画像から何か分かるのかも知れないと調べてみましたが、撮影している高度が高すぎるため神社の社叢程度は判別できますが、それ以外に城館遺構と関連しそうな地形上の特徴を見出すことはできませんでした。

城 
古城台の城 −画像C−
( 2018年4月19日 撮影 )
凸作間神社境内地の北西部付近の画像です。人工的な基壇であることには間違いは無く、比較的新しいもののようにも感じますが一部石積みのような普請も見受けられます。

訪城アルバム
双体の道祖神
凸1 双体の道祖神
 境内の市道沿いに祀られている双体の道祖神です。解説には江戸時代の寛保元年(1741)と記されており比較的新しいものですが、それでも長年の風雨に晒されたせいなのか、大分風化が進んでいるようにも見受けられました。「野仏めぐりポイント1」という標識が設置されており、吾妻方向からの旅人が当地にて休息をとったとの説明が記されておりました。
 実はここを訪れる前に些か峻険な岩山に登ってしまい、遅まきながらも取り敢えずは「この日の道中の安全」を祈願いたしました ^^

作間神社境内
凸2 作間神社境内
 南側の神社参道の石畳から撮影したもので、以前は旧村上村の村社とされいたこともあり、間口約60m、奥行き約70mと比較的大きな境内地となっておりました。この旧村上村はその後明治22年に合併により旧小野上村となり、2006年には渋川市となりました。
 なお、この旧村上村では、天明3年(1783年)の「浅間噴火記」の記録によれば、浅間山の大噴火により、流失家屋24戸、死者3名、泥入地250石という被害を受けたとされています。この作間神社は吾妻川方面から見ると東側の高台に所在しており、当該被害の発生したとされているのは、おそらくは現在の国道353号線に近い地域であったのでしょうか。

顕彰碑
凸3 顕彰碑
 作間神社の境内地東側には、当地における近世以来の入会地を当時の村上村に寄贈した経緯など記した顕彰碑が設置されておりました。なお、碑文の冒頭部分には僅かに白井長尾氏との関わりを示す件が刻まれておりました。
 なお、碑文の関係個所は「この地は旧く康元元年(※1256年)白井城主長尾四郎大夫景煕の領する所にして・・・」となっておりまが、残念ながら古城台の城との関係は記されてはおりません。
 なお、この景煕は鎌倉期初期の白井長尾氏の当主とされておりますが、後継不在のため同族の景忠が養子となり、その後この系統からは長尾景仲に続く白井長尾氏や、総社長尾氏などが分かれたとされています。(※「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)より)
交通案内


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いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭全集第3巻」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本城郭体系第4巻」(1980/新人物往来社)
「群馬県の中世城館跡」(1988/群馬県教育委員会)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版) ⇒ 所在地住所表記にやや誤りがあり情報もやや古くなっている。

歴史・郷土史関係
「戦国軍記事典 群雄割拠編」(1997/和泉書院)
「戦国大名家辞典」(2013/東京堂出版)
「全国国衆ガイド」(2015/星海社)
「角川日本地名大辞典」(1988/角川書店)
「戦国史 上州の150年戦争」(2012/上毛新聞社)
「上野の戦国地侍」(2013/みやま文庫)
「上野武士団の中世史」(1996/みやま文庫)
「図説真田一族」(2015/戎光祥出版)
「戦国北条氏と合戦」(2018/戎光祥出版)
「増補改訂戦国大名と外様国衆」(2015/戎光祥出版)
「両毛と上州諸街道」(2002/吉川弘文館)
「真田街道を歩く 改訂版」(2015/上毛新聞社)
「戦国期上杉・武田氏の上野支配」(2010/岩田書院)
「戦国大名と国衆13信濃真田氏」(2014/岩田書院)

史料、地誌、軍記物
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収
 「上毛古城塁址一覧」(山崎一氏/編纂)
「上野国志」(毛呂権蔵著/毛呂権蔵著/1974影印本)

その他
「マッピングぐんま」(群馬県遺跡データベース) ⇒ 所在地の確認に役立つ。
「国土地理院航空写真」 ⇒ 戦後間もない時期に撮影されたもののなかには、その当時の地形を把握できるので役立つ場合もあるが、当城館を撮影したものは全て撮影高度が高いため、地表部の詳細な観察が困難であった。
「加沢記」(国立国会図書館デジタルコレクションより ※ダウンロード可能)


更新記録
・2018年12月16日 HPアップ
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