凸河原丹後守の伝承 城跡は鏑川南岸、上信電鉄軌道北側の低台地に所在し一辺が約150mばかりの三角形に近い形態とされている。台地の水田面からの比高差は最大でも4m前後という丘陵先端部の地形を利用した比較的小規模な城館跡である。 地元旧家に「河原丹後守が城主であった」という伝承が残されているのみであり、築城の経緯やその歴史的な背景については不詳とされている。この地域の多くの群小領主が辿ったように、戦国期においては当初長野氏に帰属し同氏の滅亡後には武田氏、後北条氏に帰属した在地領主階層の居館とも想定されるが、具体的な史料を欠いていることからその経緯詳細などについては不明と言わざるをえない。 城跡の北方約300mの地点に著名な「多胡碑」が所在し、別名としてその大字名から池城、字名からは岡城ともいう。
( 2010/12/27 ) 凸 三角形状の城館跡 鏑川南岸、上信電鉄軌道北側の低台地に所在し、その地形状の制約から三角形の縄張を有する城館跡となっています。明らかな城館遺構としては北端部の土塁を挙げることができ、 竹林の中に所在する土塁遺構は高さは2mから2.5mほどを測り、その延長は約15mほどの規模で残存している様子を確認することができます。ただし幾分遺構としての形態が崩れかかっている様子が窺え、西辺に所在していたとされる空堀跡については些か分かりにくい状況となっておりました。またこのほかには城跡遺構の南端部に宅地化によりその規模・形状が改変されているとは思われますが、空堀状地形を示すの堀跡も現存しておりました。 しかし全体として南側の台地続き部分については、後世の宅地化と耕作などに伴い、堀切・空堀などの存在を示唆するような痕跡を確認することは最早困難となっておりました。
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