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群馬県吉井町の城館索引へ戻る  池の岡城全景 池の岡城のバナー 池の岡城堀跡
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/11/05のブログ
所在地
 群馬県高崎市吉井町池字岡(旧吉井町)
歴史、人物、伝承

河原丹後守の伝承
 城跡は鏑川南岸、上信電鉄軌道北側の低台地に所在し一辺が約150mばかりの三角形に近い形態とされている。台地の水田面からの比高差は最大でも4m前後という丘陵先端部の地形を利用した比較的小規模な城館跡である。
 地元旧家に「河原丹後守が城主であった」という伝承が残されているのみであり、築城の経緯やその歴史的な背景については不詳とされている。この地域の多くの群小領主が辿ったように、戦国期においては当初長野氏に帰属し同氏の滅亡後には武田氏、後北条氏に帰属した在地領主階層の居館とも想定されるが、具体的な史料を欠いていることからその経緯詳細などについては不明と言わざるをえない。
 城跡の北方約300mの地点に著名な「多胡碑」が所在し、別名としてその大字名から池城、字名からは岡城ともいう。

確認可能な遺構
 土塁、空堀
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年11月5日 9時55分から11時10分
訪城の記録 記念撮影

( 2010/12/27 )
 三角形状の城館跡
 鏑川南岸、上信電鉄軌道北側の低台地に所在し、その地形状の制約から三角形の縄張を有する城館跡となっています。明らかな城館遺構としては北端部の土塁を挙げることができ、 竹林の中に所在する土塁遺構は高さは2mから2.5mほどを測り、その延長は約15mほどの規模で残存している様子を確認することができます。ただし幾分遺構としての形態が崩れかかっている様子が窺え、西辺に所在していたとされる空堀跡については些か分かりにくい状況となっておりました。またこのほかには城跡遺構の南端部に宅地化によりその規模・形状が改変されているとは思われますが、空堀状地形を示すの堀跡も現存しておりました。
 しかし全体として南側の台地続き部分については、後世の宅地化と耕作などに伴い、堀切・空堀などの存在を示唆するような痕跡を確認することは最早困難となっておりました。

池の岡城全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
池の岡城全景(北東方向から撮影したもの)
( 2008/11/05 撮影 )
訪城アルバム
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
南東部の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北端部の土塁
 城跡の北端部西辺の竹林中に残存している土塁遺構で、高さ約2.5m、長さ約15mほどの規模で残存しています。手前の部分が幾分窪地状を呈し、以前の縄張図と照合する限りではかつての堀跡とも想定されますがその詳細は不明です。
凸2 南東部の空堀
 城跡南東部に遺されている空堀状の地形ですが、宅地化に伴い往時の規模は不明です。現状での深さは約1mから1.5m、幅は約7m前後、長さ50m以上を測りますが、元来の細い谷筋を掘り込んだような地形ではないかと推定されます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)

■郷土誌・歴史関係
「吉井町誌」(1969/吉井町)
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)

■史料・地誌関係
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収

・2010/12/27 HPアップ
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