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群馬県富岡市の城館索引へ戻る 星田城の崖線 星田城のロゴ 星田城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年12月20日のブログ 田篠の内出
所在地
 群馬県富岡市星田字城ノ口(城口=ジョウクチとも)
歴史、人物、伝承

小幡氏の出城とも伝わる
 鏑川と高田川によって鋭利に削り取られた比高差12mほどの断崖を有する段丘の辺縁部に所在しているが、その築城などの歴史的な経緯については、史料上では余り明確であるとはいえない。城跡の規模等は本来は東西約100m、南北約80mほどの方形館であった模様である。
 「角川日本地名大辞典 群馬県」に収録されている「星田」の項の記述によれば、僅かに小幡氏の出城であったとの伝承が残されているらしい。なお、16世紀中頃の寛文郷帳によれば石高は250石余り(田方107石余、畑方142石余)であり、星田の地を拠点とした在地領主の存在は考えにくく、小幡氏の出城説は存外妥当なのかも知れない。

確認可能な遺構
 土塁、小口、切岸
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年12月20日 11時40分から12時00分
訪城の記録 記念撮影

 これといって成果の無かった富岡市街の田篠の内出方面から、国道254バイパスの下を潜って星田城跡へ向いました。その途中で鏑川沿いに「城下公園駐車場」の看板を発見しましたと。「城下」があるからには、「城跡」があってもよさそうなものですが、ここは城下の地名のみという塩梅のようでした。また星田城とは鏑川の対岸に当たるため、直接の関係は無さそうに思われます。
 一方星田城の方は、鏑川と高田川によって鋭利に削り取られた比高差12mほどの断崖を有する段丘の辺縁部に所在しています。この様子は「城下公園」側からも崖線部の断崖は明確に目視できました。
 関係資料によれば、以前は崖線部に相当する南側を除いて周囲を土塁がめぐっていた模様です。しかし現在では北側土塁の西辺部(高さ約3m)と小口跡(耕作等により消滅傾向)などが確認されるのみです。東側および北側東辺部の土塁は、耕作等(桑畑等の開墾か)により消滅していましたが、それでも土塁跡基底部にその名残を感じとることができました。
( 2011/12/26 )記述
星田城の崖線
星田城の崖線部
( 2011年12月20日 撮影 )
訪城アルバム
東側土塁の痕跡
北側の土塁
凸1 東側土塁の痕跡
 方形館の北辺東側の様子で、川原石による補強を偲ばせる土塁の痕跡です、画像右側の耕作地よりも1.2mほど高くなっていました。なお、郭内は画像左側ですが、耕作化等により、その面影は余りありませんでした。
凸2 北側の土塁
 唯一の現存遺構ともいうべき北辺西側の土塁で、郭外側で約3m前後の高さを測ります。
 宅地の一角に所在していることから、道路の北側の高台から撮影をしたものです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)※記載なし
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)※記載なし

■郷土史・歴史
「富岡市史 自然編、原始・古代中世編」(1987/富岡市)※記載なし
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)

・2011年12月26日 HPアップ
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