凸下栗須堀之内との関連 中川河川改修工事に伴い実施された1984年度の部分的な発掘調査により、中世のものと推定される薬研堀状の溝跡が検出された。これによれば堀幅と形状などから中世の居館の存在を推定している。 板碑等の出土遺物から鎌倉・室町期と推定されているが、その具体的な年代、背景等については不詳の模様。なお発掘調査報告書にも示唆されているように、南方約200mに半ば隣接するような状態で所在する「下栗須堀之内」との関わりが想定されよう。
( 2008/10/20 ) 凸 予想通り収穫は限りなくゼロ こちらも「下栗須堀之内」(仮称)と同様に「群馬県文化財情報システム」の情報だけが頼りの場所。「水田地帯の低地+河川改修実施+上越新幹線高架橋至近」というような極めて訪城動機を欠く条件が完備。それにも拘らず立寄った理由は、「下栗須堀之内」の隣接地ともいうべき至近距離に所在し、かつ次の目的地への途中に所在しているという実に消極的事情なのでありました。 事後収集した関係資料等によりますと、中川の河川改修事業に伴う発掘で中世城館との関わりを想起させる遺構・遺物が検出されているとの記述が。しかし、この日現地では稲刈りが終わった後のこざっぱりとした平坦な水田が大きな広がりを見せ、東方には中川が北流し北方には上越新幹線の高架橋が北西から南東方向に走るという中世城館跡とは余り縁のなさそうな光景が正しく予想通りに展開しておりました。
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