凸奥平氏一族の詰城か 申田川とその支流である細田川の合流点丘陵先端部に占地した戦国期の小規模な梯郭式城郭で奥平城の北方約800mに所在しています。稜線続きの主郭北西に堀切等で防御された小規模で細長い2か所の郭を伴ってはいますが、城郭としての機能はその眺望などから見ても、南方の申田川下流及びその本流である鏑川対岸方面を意識した構造を有しているものと考えられます。元来は岩崎城などと同様に主郭とその帯郭などを中心とした単郭構造であった形態のものを、後に武田氏などの進攻に備えて改修強化したものとも考えられます。 なお「中津藩史」の奥平氏の系譜を記した「総叙」「世譜」「歴世」の項において、奥平氏は村上天皇(在位946-967)の皇子具平親王(ともひらしんのう)を祖先とする源氏後裔とされ、その第11代赤松播磨守則景の代に東国へ下り、源頼朝に従い甘楽郡司畠山小幡右衛門尉政行の娘と婚姻。その子氏行は児玉本庄左衛門尉家定の婿となり文治年間(1185-1189)甘楽郡司として、甘楽郡小幡庄奥平邑(下奥平)に「奥平城」を構えて奥平姓を名乗り鎌倉期を通じて代々甘楽郡司を務め大いに繁栄したとされています。(一部「吉井町誌」からの記述を引用) 凸南朝方として活躍ののち三河へと移住し、徳川氏に従い近世大名へと転身 「中津藩史」などによれば、その後奥平氏は6代定政の時には新田氏に従い鎌倉幕府の滅亡に戦功をあげ、その後も南朝方として活躍。延文4年(1359)には懐良親王を奉じて九州へと転戦しますが少弐氏との合戦で討死を遂げます。その後、天授年間(南朝年号1375-1380)8代貞俊の時には三河国作手郷に移住して次第に勢力を伸長させたとされます。なお、この三河への転出理由は不明とされ(南朝方の軍事的崩壊、一族の家督争いなどが背景とも)、かつ作手郷における急速な勢力の拡大経緯についてもあまり明確とは言い難いと考えられます。 同氏の一部はそのまま奥平の地に残ったものと考えられていますが、永禄年間の武田氏による箕輪長野氏攻略に関連して奥平城は落城し、その詰城とも推定されているこの馬場城についても概ね同様の運命を辿ったものと考えられています。 その後奥平氏は戦国時代には「姉川の合戦」「長篠の合戦」で戦功を上げ、信昌は徳川家康の長女亀姫を娶り、長男家昌は宇都宮10万石を拝領しその子孫は豊前中津奥平藩主となり、四男忠明は家康の養子となり松平の姓を受け大坂の陣の戦功により姫路18万石の大名へと出世し武蔵忍藩の遠祖となりました。
( 2011/02/09 記述) 凸 見落としだらけ この日は直前に再訪した岩崎城での篠竹の藪潜りの修行を積んだために、藪が殆どない快適なミニ山城という印象です。ただし主郭へと通じる80段ほどの石段は鉄パイプ製の手摺が設置されているものの落ち葉が積もり滑りやすく、然も石段のところどころが経年変化によりやや劣化しておりました。さて古い縄張り図と照合してみますと、中腹部分に建設された林道のため城跡東側の遺構がある程度消滅している模様であることが判明しました。とはいうものの、主郭部分を始めとして、その下の腰郭、東側の堀切と北側2か所の堀切遺構等は良好な状態で現存しておりました。 管理人の場合には、帰路に前記の階段を下るのは足元にかなり問題がありそうなため、一番北側の堀切から竪堀を東に下り林道へ。尤もその際に林道開削に伴い近年切り落とされた斜面にて、あろうことか本日2度目のスライディングを(苦笑)このため再び堀切に戻る意欲を削がれてしまい、主郭を取り巻く帯郭部分、主郭中段部分の腰郭の現存状況およびそれらの位置関係、城域北西部の3の郭の詳細などかなりの部分を見落としてしまいました。 この日は最初の予定では吉井町の残り6か所を大方片付けるという心づもりでした。ところが蓋を開けてみれば、出かけた時間の遅さと相俟って再訪した岩崎城に時間と精気の大半消耗し新規は僅かに2か所という有様に。城跡の規模が小さく、比高差は2か所合わせても100m前後であるにも拘らず、この程度の踏査だけで疲れ果ててしまうことに、あらためて年齢というものを痛感したものでありました。 振り返ってみれば2008年の1年間に藤岡・吉井方面を訪れたのは累計にして既に15回以上となりました。このためこの方面の地理に詳しくなったことと同時に、往復5時間以上の運転が全く苦にならなくなったことも大きな収穫の一つにはなったようでした。そのような次第で、何れ近いうちに再訪するだろうなどと更新を先送りしているうちにあっという間に2年以上の月日が流れ今日に至っております。
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