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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/01のブログ 奥平城
所在地
 高崎市吉井町上奥平字馬場
歴史、人物、伝承

奥平氏一族の詰城か
 申田川とその支流である細田川の合流点丘陵先端部に占地した戦国期の小規模な梯郭式城郭で奥平城の北方約800mに所在しています。稜線続きの主郭北西に堀切等で防御された小規模で細長い2か所の郭を伴ってはいますが、城郭としての機能はその眺望などから見ても、南方の申田川下流及びその本流である鏑川対岸方面を意識した構造を有しているものと考えられます。元来は岩崎城などと同様に主郭とその帯郭などを中心とした単郭構造であった形態のものを、後に武田氏などの進攻に備えて改修強化したものとも考えられます。
 なお「中津藩史」の奥平氏の系譜を記した「総叙」「世譜」「歴世」の項において、奥平氏は村上天皇(在位946-967)の皇子具平親王(ともひらしんのう)を祖先とする源氏後裔とされ、その第11代赤松播磨守則景の代に東国へ下り、源頼朝に従い甘楽郡司畠山小幡右衛門尉政行の娘と婚姻。その子氏行は児玉本庄左衛門尉家定の婿となり文治年間(1185-1189)甘楽郡司として、甘楽郡小幡庄奥平邑(下奥平)に「奥平城」を構えて奥平姓を名乗り鎌倉期を通じて代々甘楽郡司を務め大いに繁栄したとされています。(一部「吉井町誌」からの記述を引用)

南朝方として活躍ののち三河へと移住し、徳川氏に従い近世大名へと転身
 「中津藩史」などによれば、その後奥平氏は6代定政の時には新田氏に従い鎌倉幕府の滅亡に戦功をあげ、その後も南朝方として活躍。延文4年(1359)には懐良親王を奉じて九州へと転戦しますが少弐氏との合戦で討死を遂げます。その後、天授年間(南朝年号1375-1380)8代貞俊の時には三河国作手郷に移住して次第に勢力を伸長させたとされます。なお、この三河への転出理由は不明とされ(南朝方の軍事的崩壊、一族の家督争いなどが背景とも)、かつ作手郷における急速な勢力の拡大経緯についてもあまり明確とは言い難いと考えられます。
 同氏の一部はそのまま奥平の地に残ったものと考えられていますが、永禄年間の武田氏による箕輪長野氏攻略に関連して奥平城は落城し、その詰城とも推定されているこの馬場城についても概ね同様の運命を辿ったものと考えられています。
 その後奥平氏は戦国時代には「姉川の合戦」「長篠の合戦」で戦功を上げ、信昌は徳川家康の長女亀姫を娶り、長男家昌は宇都宮10万石を拝領しその子孫は豊前中津奥平藩主となり、四男忠明は家康の養子となり松平の姓を受け大坂の陣の戦功により姫路18万石の大名へと出世し武蔵忍藩の遠祖となりました。

確認可能な遺構
 主郭、郭、腰郭、帯郭、堀切、竪堀ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年12月1日 14時00分から15時10分
訪城の記録 記念撮影

( 2011/02/09 記述)
 見落としだらけ
 この日は直前に再訪した岩崎城での篠竹の藪潜りの修行を積んだために、藪が殆どない快適なミニ山城という印象です。ただし主郭へと通じる80段ほどの石段は鉄パイプ製の手摺が設置されているものの落ち葉が積もり滑りやすく、然も石段のところどころが経年変化によりやや劣化しておりました。さて古い縄張り図と照合してみますと、中腹部分に建設された林道のため城跡東側の遺構がある程度消滅している模様であることが判明しました。とはいうものの、主郭部分を始めとして、その下の腰郭、東側の堀切と北側2か所の堀切遺構等は良好な状態で現存しておりました。
 管理人の場合には、帰路に前記の階段を下るのは足元にかなり問題がありそうなため、一番北側の堀切から竪堀を東に下り林道へ。尤もその際に林道開削に伴い近年切り落とされた斜面にて、あろうことか本日2度目のスライディングを(苦笑)このため再び堀切に戻る意欲を削がれてしまい、主郭を取り巻く帯郭部分、主郭中段部分の腰郭の現存状況およびそれらの位置関係、城域北西部の3の郭の詳細などかなりの部分を見落としてしまいました。
 この日は最初の予定では吉井町の残り6か所を大方片付けるという心づもりでした。ところが蓋を開けてみれば、出かけた時間の遅さと相俟って再訪した岩崎城に時間と精気の大半消耗し新規は僅かに2か所という有様に。城跡の規模が小さく、比高差は2か所合わせても100m前後であるにも拘らず、この程度の踏査だけで疲れ果ててしまうことに、あらためて年齢というものを痛感したものでありました。
 振り返ってみれば2008年の1年間に藤岡・吉井方面を訪れたのは累計にして既に15回以上となりました。このためこの方面の地理に詳しくなったことと同時に、往復5時間以上の運転が全く苦にならなくなったことも大きな収穫の一つにはなったようでした。そのような次第で、何れ近いうちに再訪するだろうなどと更新を先送りしているうちにあっという間に2年以上の月日が流れ今日に至っております。


馬場城南方山麓からの遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
南方山麓からの遠景
( 2008/12/01 撮影 )
訪城アルバム
馬場城主郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭東下堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 馬場城主郭
 径30m足らずの主郭部で北側4m下方には小口郭を兼ねた腰郭を伴っています。現在は木々が生育し眺望は殆ど期待できませんでした。
凸2 主郭東下堀切
 主郭北辺の腰郭部分へと続く小口状の堀切と竪堀状の城道で大手口と推定されているようです。なお、この主郭の北東方向に続く尾根筋部分は近年の林道建設などによりある程度の地形の改変を受けているように思われました。

主郭北西部堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭北西の郭 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭北西部堀切
 主郭と2の郭を隔絶している堀切で左側主郭部側では約5mほどの比高差を有していますが、右側2の郭側では長年の落葉などの堆積により僅か1mほどの規模となっておりました。
凸4 主郭北西の郭
 「画像3」の右側、2の郭上部の様子ですが堀切と両側の切岸以外には目立った遺構の形跡は認められず、稜線部を削平している部分も極めて狭隘でした。

堀切 ⇒ 画像クリックで拡大します
一郷山城方面 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 堀切
 2の郭とその北西に続く3の郭との間に施されている堀切遺構で、「画像3」の個所と比べると何れも十分な深さであることが確認できました。堀切手前の部分は東側の竪堀へと続き、画像奥の部分は主郭下段の帯郭へと続いているものとされております。
凸6 一郷山城方面
 主郭南部の林道から撮影した観光モニュメント建設により消失してしまった牛伏山一郷山城方面の遠景です。現在位置や方向などを確認するランドマークとしては、それなりに便利には違いないのですが。なお、奥平城方面は画像中央部の丘陵地帯の陰に隠れています。
交通案内

・麓の林道からの比高差は約40mほど

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館 5 栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1979/新人物往来社)
「群馬の古城 全3巻」(山崎 一 著/2003/あかぎ出版)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土誌・歴史関係
「吉井町誌」(1969/吉井町)
「中世吉井の城館跡」(1991/吉井町教委)
「吉井町の文化財ガイドブック」(2006/吉井町郷土資料館)
「角川日本地名大辞典 群馬県」(1988/角川書店)
「多野藤岡地方誌」(1976/多野藤岡地方誌編集委員会)

■史料・地誌関係
「群馬県史料集 別巻1古城誌篇」(1969/群馬県文化事業振興会)
 ※高崎城大意、上州古城塁記、上毛古城記、上毛古城塁址一覧を所収


・2011/02/09 HPアップ
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