凸戦国武田氏最後の城郭 武田勝頼は躑躅ケ崎の館に代わる領国支配の本拠地として、天正9年の1月より築城を開始した。その期間はおよそ8ヶ月で一応の完成をみたというが、その細部にわたっては未完であったともいう。 このため天正10年の織田軍の武田領進攻に際しては、一族や家臣団の離反・瓦解とも相俟って、同年3月3日には自焼自落したといわれている。その直後の3月11日には、武田勝頼、信勝父子は織田軍の川尻秀隆、滝川一益らに包囲され、田野で自害し、戦国大名武田氏はここに滅亡を遂げた。 然し同年6月2日には本能寺の変が発生し織田信長は自刃した。その死去後の武田氏旧領をめぐる後北条氏との争奪戦である天正壬午の乱では、徳川氏が陣を置いたともいわれているが、その際に所要の改修を受けたのかどうかは定かではないともいう。
・いつもガイド の案内図です