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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/12/30のブログ
所在地
 山梨県韮崎市神山町字鍋山、北宮地
歴史、人物、伝承

戦国武田氏の山城
 北を白沢川、南を八幡沢に挟まれた標高567m通称鍋山の山頂部に占地し、北西約600mに北烽火台、南約900mにムク台の烽火台が所在し、白山城を含めて国指定史跡となっている。別名を鍋山の砦為朝の城跡菱岩城城山武田館要害城などともいう。
 「甲斐国志」の記述によれば、神山町武田の地に居館を構えた武田信義の要害が鍋山村に所在するとされ、この要害が白山城と考えられている。中世末期には武川衆の棟梁である青木信種が白山城を任されたが、主家である武田氏の滅亡後には青木氏一族の山寺甚左衛門信昌が、天正10年(1582)12月に鍋山郷百貫文を本領安堵されその支配下に置かれたと伝わる。(「寛政重修諸家譜」より)
 築城の年代、その後の改修に至る経過などには諸説があるが、武田氏による戦国期を代表する山城のひとつである

確認可能な遺構
 主郭、桝形小口、土塁、土橋、馬出、竪堀群、堀切、空堀など
文化財指定
 2001年1月29日 国指定史跡
訪城年月日
 2009年12月30日 13時30分から15時20分
訪城の記録 記念撮影

 武田神社駐車場からのスタートで、このため実質的な比高差は80m前後。
このためさほど息が上がらないまま、北側の馬出しの手前部分に到着することができました。
 主郭と北側馬出し付近の堀跡は土橋とともに良好に残存しています。なお資料に掲載されていた帯郭から続く放射状の縦堀群については、残念ながらその大半が藪に覆われ枯葉に埋没中で、その現状からはそれほど目立ちませんでした。
 また南西方向の尾根筋に約100mほどの距離を隔て、南東側を意識して構築された腰郭群との相互関係がとても気になりました。コンパクトな山城ですが、その探訪の容易さも含め武田氏の山城の雰囲気を味わうことのできる城跡のひとつです。
( 2011/11/28  記述 )

白山城全景
白山城の全景
( 2009/12/30 撮影 )

(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「戦国武田の城」「山梨県史資料編7」掲載の情報などを基に、現地での印象を加味して作成しています。

白山城の概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
空堀
主郭小口
凸1 空堀
 馬出郭を防御する空堀で、その先端部は斜面を下り竪堀状となっています。
凸2 主郭小口
 主郭部南東部の小口で小規模ながらも堀窪められた桝形状を形成しています。北西部にも土塁の切れ目が所在しますが小口かどうかについては疑問が残りました。

主郭 ⇒ 画像クリックで現地解説板の画像へ
土橋
凸3 主郭 
 低土塁の残る白山城の主郭部分です。面積は約600平方メートルほどで、南側の2の郭部分を含めても、その在城できる兵力は100名程度が限度のようです。
凸4 土橋
 主郭北側の帯郭から馬出郭へと続く土橋部分。
交通案内

・比高差約120m(駐車場の所在する武田神社からの比高差は約80mほど)

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭全集」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「戦国武田の城」(中田正光 著/1988/有峰書店新社)
「中部地方の中世城館2山梨・長野」(2001/東洋書林)
「新府城の歴史学」(2008/新人物往来社)
「山梨県史資料編7中世4考古資料」(2004/山梨県)

■郷土史・歴史関係
「角川日本地名大辞典19山梨県」(1984/角川書店)

・2011/11/28 HPアップ
・2019/06/26 画像ズレ補正
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