凸甘利氏の詰城か 「山梨県史資料編7中世4考古資料」によれば、大輪寺一帯が甘利氏の平時の居館であり、詰城等として築造されたのが、南西約1.5kmに所在する扇子平城であると推定されている。本格的な学術調査が行われたのは1989年と比較的新しいことから、この山城について解説している資料は現在でもそう多くは無い。 「甲斐国志」によると、「扇子平 上条中之割村 甘利左衛門尉(甘利昌忠)の亭候(物見台櫓)を置く所なり、上平かにして扇の形に似たり、今は小物成場(畑か)なり大輪寺これを有す」と記されている。 主郭以外の郭面の削平や構造があまり明確ではなく、3か所の堀切のバランスに些か違和感も感じられることなどから、当初以降における一部改修(途中中止も)の可能性も想定される。 なお甘利昌忠(のち信忠)は天文、永禄期に活躍した人物で、信玄の家老職(両職)を務めた重臣であり、天文17年(1548)の上田原合戦で戦死した甘利虎泰の子であり、父に代わって甘利衆の指揮を統括するとともに木曽、上野などの国衆の取次役として、永禄10年(1567)頃まではその活動が確認されている。(※「戦国人名事典」「戦国期東国の大名と国衆」より) 別名を扇平城(おうぎだいらじょう)、扇子平山城(せんすだいらやまじょう)ともいう。
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