凸最上氏、長瀞氏の居城 古くは西根氏が建長年間(T249−1256)に築造したとも伝わるが詳細は不明で、その後は最上氏4代の最上(斯波)満家が居城したとされている。 「長瀞村誌」(1910)によれば、山形城主である最上満家が晩年に家督を子頼宗に譲り、当初は応永22年(1415)に本楯に居館を築いて隠居したが、本楯の地は最上川の氾濫の影響が大きいためにその後集落ごと当地へと東遷したという伝承もある。 戦国時代には最上氏の後裔とも推定される長瀞氏が在城したが、天童氏に与して最上義光に敗れたともいわれている。その後、義光の代に遠山下記、長瀞義保、矢桐相模守などが在城したともいわれるが詳細は明らかではない。最上家改易の後には収公され幕府代官陣屋がおかれたが、寛政10年(1798)には武蔵久喜から米津氏が移封されて以後大名陣屋として幕末まで継続した。
凸 方形の水堀が残存 ( 2011/05/30 記述 ) 戦国期最上氏時代には「長瀞古城」と呼ばれた四重(三重とも)の水堀に囲まれた城郭でしたが、その後は幕府代官陣屋等の時代を経て近世後半には米津氏1万1千石の大名陣屋として利用され幕末を迎えた城郭跡です。 方形の二の丸の水堀は概ね残存し、東側と北側の二方が整備がすすんでおりました。ただしどちらかといえば整備されすぎたという印象も少なくは無く、未整備のままの西辺南側の個所などの方が味わい深い雰囲気を残しているのでありました。現存しているこの水堀についてはほぼ完全な方形で戦国期末に見られるような防御構造を欠くことから近世初期最上氏末期の築造と見られているようです。 さて、この時点で天気予報どおりに急速に雨模様へと変貌。 断続的に小雨が降る中、次の目的地へと移動開始。この一方天候の悪化に反比例して、体調の方だけは幾分復活傾向に転じていきました。
・いつもガイド の案内図です