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山形県東根市の城館索引へ戻る 長瀞城の石碑長瀞城のバナー長瀞城堀跡
1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/5/14のブログ 長瀞本楯楯 
所在地
 山形県東根市長瀞字楯の内
歴史、人物、伝承

最上氏、長瀞氏の居城
 古くは西根氏が建長年間(T249−1256)に築造したとも伝わるが詳細は不明で、その後は最上氏4代の最上(斯波)満家が居城したとされている。
 「長瀞村誌」(1910)によれば、山形城主である最上満家が晩年に家督を子頼宗に譲り、当初は応永22年(1415)に本楯に居館を築いて隠居したが、本楯の地は最上川の氾濫の影響が大きいためにその後集落ごと当地へと東遷したという伝承もある。
 戦国時代には最上氏の後裔とも推定される長瀞氏が在城したが、天童氏に与して最上義光に敗れたともいわれている。その後、義光の代に遠山下記、長瀞義保、矢桐相模守などが在城したともいわれるが詳細は明らかではない。最上家改易の後には収公され幕府代官陣屋がおかれたが、寛政10年(1798)には武蔵久喜から米津氏が移封されて以後大名陣屋として幕末まで継続した。

確認可能な遺構
 二の丸水堀ほか
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月14日 11時55分から12時30分頃まで
訪城の記録 記念撮影

 方形の水堀が残存 ( 2011/05/30 記述 )
 戦国期最上氏時代には「長瀞古城」と呼ばれた四重(三重とも)の水堀に囲まれた城郭でしたが、その後は幕府代官陣屋等の時代を経て近世後半には米津氏1万1千石の大名陣屋として利用され幕末を迎えた城郭跡です。
 方形の二の丸の水堀は概ね残存し、東側と北側の二方が整備がすすんでおりました。ただしどちらかといえば整備されすぎたという印象も少なくは無く、未整備のままの西辺南側の個所などの方が味わい深い雰囲気を残しているのでありました。現存しているこの水堀についてはほぼ完全な方形で戦国期末に見られるような防御構造を欠くことから近世初期最上氏末期の築造と見られているようです。
 さて、この時点で天気予報どおりに急速に雨模様へと変貌。 断続的に小雨が降る中、次の目的地へと移動開始。この一方天候の悪化に反比例して、体調の方だけは幾分復活傾向に転じていきました。

長瀞城の石碑
長瀞城の石碑
( 2009/05/14 撮影 )
訪城アルバム
二の丸水堀北東部 ⇒ 画像クリックで拡大します
二の丸水堀西側 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 北東部の堀跡
 周辺の道路整備がすすみ半ば城址公園のような佇まいを見せています。堀幅は古い資料では最大12間(約22m)を測るとも記されていることから幾分縮小されたのかもしれません。
凸2 西側の堀跡
 近世初期の水堀の遺構を伝える風景ですが、この後次第に小雨模様となり、本楯へと向った時には本降りとなってしまいました。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「江戸三百藩 城と陣屋総覧 東国編」(2006/学研)
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「日本史諸家系図人名辞典」(2003/講談社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「東根市史通史編上巻」(1997/東根市)

・2011/5/30 HPアップ
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