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1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/05/14のブログ
所在地
 山形県東根市長瀞字本楯
歴史、人物、伝承

最上満家の居館か
 東根市の西北部最上川右岸沿いの自然堤防上の微高地に所在し、遺構の規模は空堀部分を含めると東西約140m、南北約300mの範囲におよぶ。
 「山形の歴史(上)」(1948)などによれば、最上氏4代の最上(斯波)満家の居館と推定されている。また「長瀞村誌」(1910)によれば、山形城主である最上満家が晩年に家督を子頼宗に譲り応永22年(1415)居館を築いて隠居したとされ、本楯は元来長瀞の集落が所在していたところであったが、最上川の氾濫により東の地へと移動したという伝承もあわせて掲載されている。
 なお、楯の東側縁辺に土塁の痕跡がのこるとされているが、当日の天候事情のため未確認である。北方に所在する川島山(村山市)の遺構を詰城とする説もあるが、直線距離にして約2km以上離間していること、相互を関連付けるような地形関係に乏しい事情などを考慮するとその関係性については疑問の余地があるものと考えられる。

確認可能な遺構
 郭、空堀
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月14日 12時45分から13時05分
訪城の記録 記念撮影

 雨は横から ( 2011/05/23 記述 )
 この日は気温の変動が激しく、日中であるにもかかわらず寒冷前線の通過により摂氏12度前後とかなりの低温となりました。 雨はどうにか小康状態でしたが、上空は真っ暗で何時本降りとなってもおかしくない空模様でした。案の定、いくらもたたないうちに北辺の堀跡(ただし現況は水田で、一部は減反政策のため未耕作の模様)の撮影中に突然の10m前後の強風とともに本降りになってきました。
 安物のビニール傘が飛ばされないように注意しつつ、デジカメを雨から守りレンズ部分に雨が当たらないように速やかに撮影し車内へと撤退し、天候の推移を見守ることにしました。堀幅は現状では北側部分がやや狭く約20m、東側部分は約25mほどの規模を有していました。
 下記の画像は数少ないカットのうちの一枚で、肝心の遺構は水田等として遺されているL字型の堀跡地形ですが、何分にも2年以上も前のことですのでかなり記憶があいまいとなってしまいました。

「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
北東付近から北側の空堀跡 −画像A−
( 2009/05/14 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「南出羽の城」「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)掲載の略測図等を参考にして作成いたしました。

城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「南出羽の城」(保角 里志 著/2006/高志書院)
「中世出羽の領主と城館」(伊藤 清郎ほか著/2002/高志書院)
「出羽諸城の研究」(沼舘 愛三 著/1980/伊古書院)
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)

歴史・郷土史関係
「戦国大名系譜人名事典」(1985/新人物往来社)
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「東根市史通史編上巻」(1997/東根市)

・2011/05/23 HPアップ
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