凸最上満家の居館か 東根市の西北部最上川右岸沿いの自然堤防上の微高地に所在し、遺構の規模は空堀部分を含めると東西約140m、南北約300mの範囲におよぶ。 「山形の歴史(上)」(1948)などによれば、最上氏4代の最上(斯波)満家の居館と推定されている。また「長瀞村誌」(1910)によれば、山形城主である最上満家が晩年に家督を子頼宗に譲り応永22年(1415)居館を築いて隠居したとされ、本楯は元来長瀞の集落が所在していたところであったが、最上川の氾濫により東の地へと移動したという伝承もあわせて掲載されている。 なお、楯の東側縁辺に土塁の痕跡がのこるとされているが、当日の天候事情のため未確認である。北方に所在する川島山(村山市)の遺構を詰城とする説もあるが、直線距離にして約2km以上離間していること、相互を関連付けるような地形関係に乏しい事情などを考慮するとその関係性については疑問の余地があるものと考えられる。
凸 雨は横から ( 2011/05/23 記述 ) この日は気温の変動が激しく、日中であるにもかかわらず寒冷前線の通過により摂氏12度前後とかなりの低温となりました。 雨はどうにか小康状態でしたが、上空は真っ暗で何時本降りとなってもおかしくない空模様でした。案の定、いくらもたたないうちに北辺の堀跡(ただし現況は水田で、一部は減反政策のため未耕作の模様)の撮影中に突然の10m前後の強風とともに本降りになってきました。 安物のビニール傘が飛ばされないように注意しつつ、デジカメを雨から守りレンズ部分に雨が当たらないように速やかに撮影し車内へと撤退し、天候の推移を見守ることにしました。堀幅は現状では北側部分がやや狭く約20m、東側部分は約25mほどの規模を有していました。 下記の画像は数少ないカットのうちの一枚で、肝心の遺構は水田等として遺されているL字型の堀跡地形ですが、何分にも2年以上も前のことですのでかなり記憶があいまいとなってしまいました。
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