凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)
■城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
→寒河江城の項中に、「寒河江城の前身は南東方にある本楯地区の自然堤防上に築城されたといわれ、現在でも東西約200m×南北180mの範囲に堀幅約15mの遺構が残されている」と記載されている。
「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)
→本楯館略測図が掲載されている。
■歴史・郷土史関係
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「史料解読 奥羽南北朝史」(大友幸男 著/1996/三一書房)
「寒河江市史 上巻」(1994/寒河江市)
→承久の変(1221)により、「寒河江荘の地頭職を得た大江廣元は、鎌倉幕府の重鎮として鎌倉を離れることはなかった。寒河江荘には廣元の目代として多田仁綱(ただ、のりつな)が入部した。「『安中坊系図』には仁綱は多田満仲朝臣の弟出羽守満成の長男左近将監満信の後胤なり、摂州多田郷吉川邑に誕生す、文治6年4月、中原廣元(大江廣元)の譲を受け、羽州寒河江荘を領す。始め本楯村に住み、のち吉川村(寒河江荘内)にうつる。...」と入部の経緯が記されている。
また本楯館の規模については、「寒河江川扇状地の最末端に位置し、また最上川が河岸段丘を作っている所で、本楯館跡は最上川段丘の端に構築され、屋敷跡は東西約200m、南北180mで周囲に堀をめぐらし、堀幅約12間の内側には土塁を築いたものである。土塁を土居と呼び、現在も土地の人々は『土居のうち』と呼んでいる」とある。
■史料、地誌、軍記物
「奥羽永慶軍記」(2005/無明舎出版)
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・2010/09/11 HPアップ
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