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山形県寒河江市の城館索引へ戻る  本楯館の石碑本楯館のバナー「土井の内」の標柱
1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/05/12のブログ 新田城
所在地
 山形県寒河江市本楯
歴史、人物、伝承

寒河江大江氏発祥の地か
 「寒河江市史 上巻」(1994/寒河江市)などによれば、本楯館は鎌倉時代初期に大江廣元の意を受けた多田仁綱が寒河江荘の支配のために派遣され、居館を築いたことに始まるという。
 弘安8年(1285)の霜月騒動後の混乱およびその後の鎌倉幕府の滅亡に伴う大江一族(顕廣、懐顕)の寒河江への移住以後から、南北朝期頃と想定される寒河江城築城までの間に、寒河江荘支配の一翼を担ったものと推定される。

確認可能な遺構
 土塁、堀跡?、城址碑あり
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月12日 10時10分から10時30分
訪城の記録 記念撮影

 堀跡消失 ( 2010/09/11 記述 )
 新田城(館)と同様にこちらも石碑と標柱が中心ですが、それでも土塁跡と思われる盛り土の一部と堀跡の形状を伝える宅地区画等が現存しておりました。「寒河江市史上巻」に掲載されていた写真画像と照合してみますと、下記石碑画像の内車止めの工事フェンスで囲まれた部分が、以前に残されていたとみられる館跡北西部の堀跡の中心部分であろうと考えられます。
  「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)などの関係資料によれば、堀幅は約10mと記されていますので現在の公道部分の半分ほどまでを含めた規模であったものと推定されます。また土塁幅についても約5mと記されていますが、後年にある程度地ならしがなされている模様で、土塁というよりも平坦な微高地という印象の地形となっておりました。
 かつては外郭部として南辺と西辺に堀跡状の水田地形も確認されたようですが、現在(2009年5月12日現在)では宅地化等の事情によりその形跡を辿ることはできませんでした。

本楯館の石碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
本楯館跡の石碑
( 2009/05/12 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「山形県中世城館遺跡調査報告書」/1996/山形県教育委員会)掲載の略測図等を参考にして作成いたしました。

本楯館遺構概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
「土井の内」の石碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
段丘東側の地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 「土井の内」の石碑
 居館の郭内であったことを伝える「土井の内」の伝承地名の石碑。少なくとも「寒河江市史上巻」が編纂された1990年代中頃当時には、この手前の舗装部分が水田として残り、堀跡の形態を留めていたもののようです。
凸2 段丘北東側の地形
 本楯の外郭部に相当すると思われる北東側には明瞭な湾入地形があり、最上川の流路が西寄りであったとされる当時には舟入として水運の拠点としても利用されていた可能性も想定されます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
→寒河江城の項中に、「寒河江城の前身は南東方にある本楯地区の自然堤防上に築城されたといわれ、現在でも東西約200m×南北180mの範囲に堀幅約15mの遺構が残されている」と記載されている。

「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)
→本楯館略測図が掲載されている。

歴史・郷土史関係
「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「史料解読 奥羽南北朝史」(大友幸男 著/1996/三一書房)

「寒河江市史 上巻」(1994/寒河江市)
→承久の変(1221)により、「寒河江荘の地頭職を得た大江廣元は、鎌倉幕府の重鎮として鎌倉を離れることはなかった。寒河江荘には廣元の目代として多田仁綱(ただ、のりつな)が入部した。「『安中坊系図』には仁綱は多田満仲朝臣の弟出羽守満成の長男左近将監満信の後胤なり、摂州多田郷吉川邑に誕生す、文治6年4月、中原廣元(大江廣元)の譲を受け、羽州寒河江荘を領す。始め本楯村に住み、のち吉川村(寒河江荘内)にうつる。...」と入部の経緯が記されている。
 また本楯館の規模については、「寒河江川扇状地の最末端に位置し、また最上川が河岸段丘を作っている所で、本楯館跡は最上川段丘の端に構築され、屋敷跡は東西約200m、南北180mで周囲に堀をめぐらし、堀幅約12間の内側には土塁を築いたものである。土塁を土居と呼び、現在も土地の人々は『土居のうち』と呼んでいる」とある。

史料、地誌、軍記物
「奥羽永慶軍記」(2005/無明舎出版)





・2010/09/11 HPアップ
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