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2009/05/12のブログ | |
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山形県寒河江市日田(にった) |
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空堀?、段丘崖線、城址石碑あり |
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なし |
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2009年5月12日 9時45分から10時00分 |
( 2009/05/12 撮影 )
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凸参考・引用資料
(太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの) ■城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社) →「新田館 東側は最上川に削られているが、昭和10年の館址の地ならし(→耕地化か)以前は、方形居館跡の形式をよくとどめていた。元亨年間(T321−1324)に仁田氏が居館し、その後永享年間(T429−1441)に下野国都賀郡吉田館から移住した新田重通が居館したといわれるが、天正12年(1584)大江氏滅亡の時共に滅んだ」ことが記されている。 「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社) →新田氏については、「公平氏系図と伝承を考慮し寒河江大江氏と姻戚関係を結び活躍した」ものと推定している。また、東側を除き方形の館址が存在していたという。「新田館」と表記 「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会) →「新田楯 西根村史談」を引用しているものと思われ、「方形単郭の形態で、昭和10年沖津常太郎調査によれば、東西109m・南北127mで、東辺部が段丘崖であり、比高約2.5m。堀幅は約9m(5間)、内側の西側から北側にかけて幅5.4m(3間)・高さ1.2m(4尺)の土塁が残存していたが、現在、土塁は削平されている。楯の内側を俗に「八反歩」と称している。あるいは、東側に開いたコの字形の構造であったことも想定される。」と記している。 ■歴史・郷土史関係 「山形県の歴史」(1998/山川出版社) 「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店) 「史料解読 奥羽南北朝史」(大友幸男 著/1996/三一書房) 「寒河江市史 上巻」(1994/寒河江市) →詳細な歴史的経緯とともに、昭和10年調査の略図(「西根村史談」より転載)も掲載されている。 ■史料、地誌、軍記物 「奥羽永慶軍記」(2005/無明舎出版) 「西根村史談」(1952/沖津常太郎 著/西根村史編纂委員会 編) ■その他 − ・2010/09/10 HPアップ
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