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山形県寒河江市の城館索引へ戻る  新田城の遠景新田城のバナー新田城の石碑
1歴史・伝承   2残存遺構   3訪城記録・記念撮影   4アルバム  5交通案内   6参考・引用資料  7更新記録
関連ページへのリンク  2009/05/12のブログ
所在地
 山形県寒河江市日田(にった)
歴史、人物、伝承

新田氏の居館
 伝承によれば元亨年間(げんこうねんかん)に仁田某が鎌倉から大江氏を頼りら移住して土地を開拓し楯を築いたと伝わる。仁田氏が衰亡した後の永享元年(1429)には、新田重通(にったしげみち)が下野国都賀郡吉田館から来住して仁田氏の跡に楯を構えたとされる。
 明応8年(1499)の寄進状において、この日田の地名が見えることから新田氏が大江氏に臣従していたと考えられている。新田氏の系譜は重通−成胤−顕正−泰正−隆則−公義−公里−公平−義久−義友と続いた。新田公平は天正12年(1584)の最上氏の侵攻に伴う大江氏の滅亡に際して、一時水戸に逃れた後密かに帰り館址に一宇を建立した。これが公平山福正寺の起こりで、元禄年間に日田集落内に移転したと伝わる。
 この新田氏系譜については一族の通字にやや統一性を欠くものと思われるが、元史料が不明なためその真偽のほどは不明である。なお、文久2年に編纂されたとされる「寒河江四朗大江高基卿家臣」によると、181名の家臣の一人として「仁田住、公平主計」とあり新田公平との関わりが窺えるが、一方慶長2年の奥書のある「毛利出羽守大江高基家中覚」(90名が収録)には記載が無い。
 方形単郭式の楯跡で、大江氏の東方防御線上に位置し、日田地方開発支配の拠点であったとしている。新田館、新田楯とも呼称されている。(概ね「寒河江市史上巻」より引した)

確認可能な遺構
 空堀?、段丘崖線、城址石碑あり
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年5月12日 9時45分から10時00分
訪城の記録 記念撮影

 嬉しい石碑 ( 2010/09/10 記述 )
 この日は早朝より天童市内からスタートしたものの生憎の小雨模様でした。しかし寒河江市に移動したあたりから次第に天候が安定し、その後は薄日さえもが顔をのぞかせるようになりました。
 今回の山形探訪に際しては、基本的に「山形県県別マップル道路地図」「日本城郭体系」「電子国土」「いつもガイド」の4点セットのみという極めて不十分な事前情報集約のため、情報不足に加えて地理不案内度も100%という状況。それでもこの辺から目的地捜索に関する「山勘」が機能全開モードに到達していた模様で、最上川を渡った県道23号線(新寒河江街道)の途中からのこんもりとした白山神社の森を発見することに成功。
 尤も具体的な成果といえば、サクランボ畑の中の御影石製城跡石碑と空堀跡らしい畑の窪みという結果でした。しかしさほど有名とは思われない城館跡で、これほど立派な石碑に出会えるとは思いもよらない僥倖でありました。
 なおこの日の夕刻には再び寒河江市内に立ち戻り、市立図書館で泥縄状態にて関係史料のコピーの申請書作成に精を出す端迷惑な行為に及ぶことに。合計数千円分のコピー料金が物語るように、無論当日での引渡しは困難となり、翌日渡しの儀と相成りました。これ故に最上川に架かる村山橋を往復すること三度を数えるに至り、県道23号線沿いだけは地理に明るくなったような次第です。

新田城の遠景 ⇒ 画像クリックで拡大します
段丘の崖線がのこる新田城の遠景
( 2009/05/12 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「山形県中世城館遺跡調査報告書」/1996/山形県教育委員会)掲載の略測図等を参考にして作成いたしました。

新田城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
白山神社 ⇒ 画像クリックで神社の縁起へ
白山神社境内 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 白山神社
 永享元年(1429)新田義貞の子孫とされる新田重通が下野国都賀郡吉田から移住した際に守護神として勧請したと伝わるそうです。(「寒河江市史」も同様の記述)
 重通の子孫は代々楯を構え寒河江大江氏に帰属していましたが、天正12年(1584)の最上氏の侵攻に敗れ常陸国水戸へ逃れたとされています(→由緒・沿革より)
凸2 白山神社境内
 神社境内を西側の道路上から撮影したもので、周囲の耕地よりも僅かに盛り上がった地形を形成していることが確認できます。
 本来の楯は空堀地形を挟んだ、北側約50m程の位置に所在していますので楯部分とは直接の関連は無さそうです。

城址石碑 ⇒ 画像クリックで拡大します
堀跡 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 城址石碑
 道路沿いの果樹園脇には詳細な由来が刻まれた立派すぎるほどの黒御影石製の城址碑が設置されておりました。関係史料には概ね「新田館」「新田楯」などと記されていますが、やはり「城跡」と称した方がより親しみやすいのかもしれません。
凸4 堀跡?
 画像右側の砂利道が耕地整理以前のものであるのかどうかは不明ですがね画像左側の部分は、白山神社の北側から続く窪地を形成しておりました。
 現況は果樹園となっていますが、以前は水田であったことから恐らくは水堀であったものと考えられます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

城郭関係
「日本城郭体系 3」(1981/新人物往来社)
→「新田館 東側は最上川に削られているが、昭和10年の館址の地ならし(→耕地化か)以前は、方形居館跡の形式をよくとどめていた。元亨年間(T321−1324)に仁田氏が居館し、その後永享年間(T429−1441)に下野国都賀郡吉田館から移住した新田重通が居館したといわれるが、天正12年(1584)大江氏滅亡の時共に滅んだ」ことが記されている。

「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
→新田氏については、「公平氏系図と伝承を考慮し寒河江大江氏と姻戚関係を結び活躍した」ものと推定している。また、東側を除き方形の館址が存在していたという。「新田館」と表記

「山形県中世城館遺跡調査報告書」(1996/山形県教育委員会)
→「新田楯 西根村史談」を引用しているものと思われ、「方形単郭の形態で、昭和10年沖津常太郎調査によれば、東西109m・南北127mで、東辺部が段丘崖であり、比高約2.5m。堀幅は約9m(5間)、内側の西側から北側にかけて幅5.4m(3間)・高さ1.2m(4尺)の土塁が残存していたが、現在、土塁は削平されている。楯の内側を俗に「八反歩」と称している。あるいは、東側に開いたコの字形の構造であったことも想定される。」と記している。

歴史・郷土史関係
「山形県の歴史」(1998/山川出版社)
「角川地名大辞典県6」(1981/角川書店)
「史料解読 奥羽南北朝史」(大友幸男 著/1996/三一書房)

「寒河江市史 上巻」(1994/寒河江市)
→詳細な歴史的経緯とともに、昭和10年調査の略図(「西根村史談」より転載)も掲載されている。

史料、地誌、軍記物
「奥羽永慶軍記」(2005/無明舎出版)
「西根村史談」(1952/沖津常太郎 著/西根村史編纂委員会 編)

その他


・2010/09/10 HPアップ
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