凸長谷堂城合戦の舞台 慶長5年(1600)東国の関ヶ原合戦ともいわれる出羽合戦の中心となった最上氏側の著名な城郭であり本城山形城西方の一大拠点であり、城将志村伊豆守光安を始めとして3千人から5千人が籠城したとも伝わる。 一方総勢2万人とも呼称され畑谷城を陥落させ狐越街道を東へと進軍した上杉軍の主将直江山城守兼続の本陣は北方の菅沢山に置かれ、9月半ばから半月の間この長谷堂城と対峙することとなった。9月29日関ヶ原での西軍の敗報が伝わるまでの間、小競り合いを繰り返して半月の間戦線は概ねこう着状態となった。しかし上杉軍の撤退にあたり、伊達氏の支援を受けた最上氏側が追撃し、双方に多数の死傷者が発生した。 上杉方菅沢山本陣の丘陵地帯との間は水田地帯が広がり双方ともに見通しがよく、共に大規模な軍勢の移動については視界を遮蔽するものが介在していない。
( 2011/6/17 記述 ) 東国の関ヶ原合戦の舞台としてある程度有名なかの長谷堂城。NHK大河ドラマ後半の方の目玉となることもあり、平日であるにもかかわらず観光バスで高齢者の団体が来訪中でした。大型駐車場完備、清潔なトイレ完備、山城も革靴で歩けるほどに歩きやすく整備されておりました。腰郭、帯郭の大半はやや草が生育中でデジカメ撮影にはやや不向きな個所もありましたが、見学そのものには支障ありませんでした。腰郭を柵で囲んだ復元方法は分かりやすく親切でしたが、場所によっては整備されすぎの傾向は無くもないところもあり、明らかに腰郭が散策路整備で真っ二つに分断されておりました。 比高差が約80mほどの割には眺望に優れ、直江兼続の本陣が置かれた西側の菅沢山も一望できます。また主郭からは山形城、天童城方面も一望できます。山城の城跡自体は思いのほか広大ではないことから、篭城可能な兵力は麓の外郭などにある程度分散したとしても500名あたりが限度なのかとも思われました。
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