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栃木県足利市の城館索引へ戻る 矢場城周辺の観音山古墳 矢場城のバナー 矢場城周辺の観音山古墳
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009年1月24日のブログ
所在地
 栃木県足利市新宿町
歴史、人物、伝承

矢場氏の居城とも
 永正年間(T504−1521)に新田金山城主由良国繁の弟にあたる国隆が矢場の地に移り矢場氏を名乗り築城したという。以来矢場氏六代の拠点となり金山城の支城として機能したが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東侵攻により廃城となったものと考えられているが、その詳細は不明である。(「日本城郭体系 4」より)
 矢場川南岸の平地であることから、南東約400mに所在する藤本観音山古墳を物見として使用した可能性も想定される。

確認可能な遺構
 なし
文化財指定
 なし(藤本観音山古墳は足利市指定史跡)
訪城年月日
 2009年1月24日 10時10分から10時30分
訪城の記録 記念撮影

 矢場城の所在地は栃木の中世城館報告書と城郭大系の記述だけが頼りです。同行いただいたG氏とそれに管理人のそれぞれが想定した場所で思案することとなりました。その場での見解は、どちらかといえば比定地不詳に近いものであったように記憶しております。
 しかし更新にあたりあらためて手元にある数少ない関係資料を見る限りでは、どちらかといえばG氏の比定された場所は畑地なので城郭大系の記述に合致しているように思われました。一方管理人が比定した地帯といえば、ひたすら水田が広がるのみで矢場川南岸の平地(しかも低地)というだけのもので、如何にも的外れな思いつきのような産物のような気がしてくるのでした(汗)。
 またそうしてみてくると、寧ろ目標物である東側に現存している藤本観音山古墳の方が、ますます物見台などの城郭関連遺構に相応しいように浮かび上がってくるのでありました。

( 2011/7/22 記述 )
東方の藤本観音山古墳 ⇒ 画像クリックで拡大します
墳丘上の見事な削平地
( 2009年1月24日 撮影 )
訪城アルバム
藤本観音山古墳 ⇒ 画像クリックで古墳の解説板へ
工場西側の畑地 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 藤本観音山古墳
 足利市の指定史跡である古墳時代中期の前方後方墳
とされ、県内では最大級の規模を有しているとのことです。画像は比高約10mを測る後方墳部分。
凸2 工場西側に残る畑地
 現状では土塁、堀跡の痕跡は限りなく乏しい地形ですが、100m四方の方形館が存在していたものと推定されています。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「近代足利市史1」(1977/足利市)

・2011/07/22 HPアップ
・2019/06/09 画像ズレ補正
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