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栃木県佐野市の城館索引へ戻る 高橋城 高橋城 高橋城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/11/23のブログ 
所在地
 栃木県佐野市高橋217ほか
歴史、人物、伝承

古河公方勢力の拠点
 「佐野市史(資料編1)」によりますと、天文年間の戦国期には館林城主赤井山城守の重臣の一人である白石豊前守(長尾顕長の重臣とも)の居城であったという説(伝承)を紹介しています。
 なお、「日本城郭大系3」において掲載され所在地不詳とされている「野田城」(足利市野田、野田要害とも)については、「栃木県の中世城館報告書」にも記載されているとおり、恐らくはこの高橋城を指しているものではないかと推定されます。
 結城合戦の経緯が記された「鎌倉大草紙」によれば、永享12年(1440)には「野田右馬助(後に古河公方の重臣となる)の郎党加藤伊豆守以下が御所方(鎌倉公方)となって、足利庄高橋郷野田の要害に軍勢を集めて上州(上杉方)を討つべく評定を行った」とされています。この点について、野田と高橋は共に地理的に渡良瀬川の北岸に所在するだけではなく隣接していることもその傍証となるものと思われます。
 したがって、15世紀中葉から戦国時代初めにかけては古河公方の勢力下にあったものとも考えられます。

確認可能な遺構
 なし
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2008年11月23日 7時20分から7時40分
訪城の記録 記念撮影

 河川改修工事により消失か
 高橋城自体はその集落と同様に、渡良瀬川の氾濫などにより形成された自然堤防上に所在していたものと考えられます。
「佐野市史」の記述によりますと、群馬県との境、渡良瀬川左岸の高橋大橋北側付近と推定されていますが、城郭遺構そのものについては概ね消滅しているとされています。
それでも外郭部を推定しつつ時計回りに周囲を一周してみますと、所々に些か気にかかる宅地等の嵩上げ地形が散見されました。しかし後世の水害除けに伴う築造とも、城館関連遺構とも判断がつきかねるのでありました。

( 2009/02/09 記述 )
高橋城北西付近 ⇒ 画像クリックで拡大します
高橋城付近(北西側)
( 2008/11/23 撮影 )
訪城アルバム
渡良瀬川堤防上から俯瞰した高橋城付近
高橋城北西部付近の宅地の嵩上 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 堤防上から
 高橋城に関連する遺構は、渡良瀬川の堤防工事に伴い完全に消失している模様ですが、まずは念のため堤防上から俯瞰して記念すべき栃木県の第一歩を踏み出したのでありました。
凸2 宅地の盛土
 上記の画像と同一の場所で、この宅地に関係した盛り土が高橋城に関連するものかどうかは不明ですが、「佐野市史」において城域として推定している地域の北西側部分に相当しています。

土塁跡と思いこみたい地形 ⇒ 画像クリックで拡大します
渡良瀬川堤防と富士山遠望 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 土塁のような盛土
 この地形も高橋城との関係については皆目不明ですが、道路脇には高さ数十センチ、長さ15mほどの盛り土が所在しておりました。
 「佐野市史」のなかで推定している城域からは北側に30mほど外れていますのでかつての洪水対策に伴うものなのかも知れません。
 
凸4 渡良瀬川と堤防
 とうとうルビコン川ならぬ渡良瀬川を渡河し、徐々にではありますがこのあと探訪先は果てしなく拡大の一途。この日は偶々遠く富士山を眺めることが叶い、後日長く記憶に残る早朝の景色となりました。
 なお、この辺りの堤防と河川敷付近も高橋城の領域のようです。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1栃木・群馬」(2000/東洋書林)、
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)、「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典栃木県」(1984/角川書店)
「佐野市史 通史編上」(1978/佐野市)、「佐野市史資料編1」(1975/佐野市)

■史料
なし

■その他
なし

・2009/02/09 HPアップ
・2019/06/11 画像ズレ補正
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