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栃木県佐野市の城館索引へ戻る 阿曽沼城の空堀 阿曽沼城のバナー 阿曽沼城
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008年11月23日のブログ
所在地
 栃木県佐野市浅沼町
歴史、人物、伝承

佐野氏一門阿曽沼氏の居城とも
 「佐野市史資料編1」によれば、佐野氏一門の阿曽沼四郎廣綱が寿永元年(1182)に築城したとも、或いは「栃木懸誌」によれば、治承寿永の頃足利中宮亮藤原有綱が、唐沢山城の支城として築城し、その四男四郎廣綱を城主としたともいわれているともいわれているが、この辺りまでの経緯については極めて伝承性が強いものと考えられる。
 その後廣綱は阿曽沼氏を名乗り佐野氏に仕えたが、鎌倉時代末期から南北朝期にかけて一時衰退したものと考えられる。しかし一族はそのまま阿曽沼にとどまり戦国期を迎えた。現存する遺構は戦国期の居館の一部と推定されるが、慶長19年(1614)佐野氏改易に伴い廃城となったものとされている。
 なお、現在の浅沼の地名は阿曽沼の転訛ともいわれている。(校訂増補下野国誌)

確認可能な遺構
 方形の居館遺構のうち北東部の空堀、土塁の一部
文化財指定
 1969年12月10日 佐野市指定史跡
訪城年月日
 2008年11月23日 16時20分から16時40分
訪城の記録 記念撮影

 いくら天候が良いとはいえ、秋の日は釣瓶落としとの譬えの如く実質的な日没時間までは残り僅か20分少々と推定を。遺構確認を急ぐべく気は焦れども、意に反して思うようには進まぬ我が両足の情けなさ。 辿りついた肝心の遺構は神社の東側に所在することもあり、既に半ば夕闇に包まれ始めはじめておりました。
 先ずは石碑、説明板などを急ぎ撮影したのち、有刺鉄線により包囲された佐野市指定史跡の堀跡を拝見。住宅地のど真ん中という立地条件を考慮すれば、南北方向に延長60mほども残存する堀跡は正に貴重な存在であることだけは間違いがないようです。
 とはいえ日没同然の時刻のため光量は明らかに不足気味。 ここで本日初めて手ブレ補正レンズ装備が役立つことに。もののついでにかつては堀跡等が存在したとされる西側を探索。 無論遺構は既に消滅し、ブロック塀により公道から仕切られた畑が寂しく広がっておりました。
 このあとは同行のG氏にお願いして、佐野市立図書館へ資料漁りに立寄りおよそ1時間ほど滞在しこの日の全日程を終了する筈が日没後の鶉古城(邑楽町)へ。

( 2011/7/14 記述 )
阿曽沼城の空堀遺構 ⇒ 画像クリックで拡大します
阿曽沼城の空堀遺構
親しみのもてる遺構解説板
( 2008年11月23日 撮影 )
訪城アルバム
阿曽沼城城址碑 ⇒ 画像クリックで現地解説板へリンク
消滅した遺構 ⇒ 画像クリックで記念碑へリンク
凸1 阿曽沼城城址碑
 浅沼八幡宮脇に建立されている城址碑。城址関係の建造物はこれとは別に築城800年の記念碑があり、そのほかに2種類の現地解説板も設置されておりました。
凸2 消滅した遺構
 関係資料などによれば、1970年代の前半くらいまではこの道路沿いに竹林が所在し、道路に並行する形で空堀・土塁遺構が存在していたものと思われます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「関東地方の中世城館1栃木・群馬」(2000/東洋書林)
「とちぎの古城を歩く」(2006/塙静夫/下野新聞社)
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 2」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典栃木県」(1984/角川書店)
「佐野市史 通史編上」(1978/佐野市)
「佐野市史資料編1」(1975/佐野市)
「栃木懸誌」(船橋一也/1904年の復刻版/歴史図書社)
「校訂増補下野国誌」(1968/下野新聞社)

・2011/07/14 HPアップ
・2019/06/12 画像ズレ補正
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