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千葉県印旛村の城館索引へ戻る  米津出羽守屋敷 米津出羽守屋敷 米津出羽守屋敷
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/03/07のブログ
所在地
 千葉県印旛郡印旛村岩戸字市場(西方)
歴史、人物、伝承

米津氏の屋敷跡
 「千葉県印旛郡誌下巻」によりますと「米津出羽守(よねきつ/でわのかみ)の屋敷跡 岩戸区市場豊田又兵衛の屋敷続きこれなりと云う、今に又兵衛の家には米津公の位牌を保存すとか、また同区西方の不動堂にある額面は字体不明なれども米津公の寄進せるものなりと云えり」と記されております。この米津公が後の久喜、長瀞藩主である米津氏を指すのかどうかについては判断に苦しむところです。
 またその関連が深いと考えられる不動堂については、「岩戸村字廣臺にあり、圓應寺末にして禅臨済宗妙心寺派にして不動明王を本尊とす創立年月不詳、寛永20年(1643)米津出羽守再興、堂宇二間四方境内六百五十五坪...」」と記されています。
 なお「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」では、岩戸字西方に所在するという旨が記されており、この個所は立地条件に相応しい台地先端部でもあり下記の「大師堂」の所在地となっています。

確認可能な遺構
 土塁状?の地形
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年3月2日 14時50分から15時45分
訪城の記録 記念撮影

 米津氏との邂逅
 歴史的経緯も分からなければ明確な所在地も不明で、 このため遺構の詳細については全く不明。それにもかかわらず1時間近くにわたり見当をつけた台地一帯を散策。確かに土塁や平場など気になる地形はあちこちに散見されますが、この辺りの台地には特にそうした地形が珍しくは無いこともあり、それが直ちに陣屋跡に関連するものか近世以降の屋敷構えなのかどうかについては全く不明だったのでありました (^^ゞ
 なお、管理人の場合には2009年5月に偶然山形県東根市内の米津氏長瀞陣屋を訪れて下りましたが、残念ながらこの米津出羽守屋敷の記述との関係が判然としておりません。

( 2010/01/02 記述 )
米津出羽守屋敷 ⇒ 画像クリックで拡大
西方御大師堂
( 2009/03/02 撮影 )

訪城アルバム
「」 ⇒ 画像クリックで拡大します
大師堂の土塁 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 集落内の土塁状地形
 岩戸集落内には断片的にこうした土塁状地形が確認されます。
 尤も近世以降の有力農民の屋敷構えなのか、それ以前に歴史を遡る性格のものなのかは分かりかねます。
⇒東方の台地辺縁部に所在する宗像神社境内の土塁
凸2 西方御大師堂の土塁状地形
 比高差10m弱ばかりの南側に張出した台地先端部に所在していますが所在していたのは享保年間に創建したとの由来を有する「大師堂」でした。
大師堂の由来を記した現地解説板。
⇒大師堂東側の土塁上地形

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
⇒「江戸末期の館跡で遺構は不明」とのみ記載されていますが、幕末期には佐倉藩と幕府直轄領の相給であったと推定されることからの幕末期の米津氏所縁の屋敷という説は疑問の余地がありそうです。
「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(1996/東洋書林)
⇒時代区分は近世、岩戸字西方に所在する旨のみが記載。

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
⇒岩戸村は近世の初め旗本米津氏の所領とされていますが、寛文6年(1666)の久喜藩成立以降は幕府直轄領との相給となり、その後寛政10年(1798)の出羽長瀞への転封により岩戸村との関係が途切れたものと考えられます。

「千葉県印旛郡誌上下巻」(1912刊/1971崙書房より復刻)
「日本史諸家系図人名辞典」(小和田 哲男 監修 2003/講談社刊)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)

「東根市史通史編上巻」(1995/山形県東根市)
⇒米津氏(よねきつし)の歴代藩主、幕末時の慶応3年(1867)の所領の散在状況、武蔵久喜藩、出羽長瀞藩転封の経緯も記されています。
 初代田政(たまさ、通称官兵衛)は慶長9年(1604)に江戸町奉行に任ぜられ5千石を知行されました。二代目の田盛(たもり、通称内蔵助)は寛永2年(1625)に家督を相続し、承応3年(1654)に従五位下出羽守の官位・受領に叙任され、寛文6年(1666)には旗本から1万5千石の譜代大名へと出世しました。また、こののち出羽守を叙任されたのは宝永6年(1709)の5代政容(まさよし)と明和4年(1767)の7代通政(みちまさ)がいます。
※同書は「新訂寛政重修諸家譜」・「徳川実記」の記述をまとめた「東久留米市史」より引用。

「旧高旧領取調帳関東編」(1969/近藤出版社)
⇒これによると幕末期の岩戸村では佐倉藩と幕府直轄領の相給となっています。

■史料


■その他


・2010/01/02 HPアップ
・2019/06/19 画像ズレ補正
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