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千葉県鎌ケ谷市の城館索引へ戻る  佐津間城の空堀 佐津間城のバナー 佐津間城の空堀
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2010/01/11のブログ
所在地
 千葉県鎌ヶ谷市中佐津間1−9(旧所在地表示:佐津間字屋敷裏)
歴史、人物、伝承

大津川沿いの要衝の地
 大津川左岸の比高差約10mほどの台地上に占地し、台地の北側と南側には小規模な入谷津が湾入し西側台地続きを除き天然の要害地形を呈している。城跡の規模は南北350m、東西約100mの範囲内と推定されているが、近年の宅地化などにより消滅している部分もあるが、現在では概ね主郭を中心とした部分が遺構として存在している。
 佐津間村は13世紀末から千葉氏一族である相馬氏の所領として文献(「相馬文書」等)にあらわれるが、相馬氏の奥州移住と下総地域支配の衰退後の16世紀には小金高城氏の影響下におかれていてたものと推定されているが、明確な史料・記録は残されてはいない。

確認可能な遺構
 土塁、空堀ほか
文化財指定
 鎌ヶ谷市指定史跡
訪城年月日
 2010年1月9日 15時40分から16時30分
訪城の記録 記念撮影

 接近遭遇までのロスタイム ( 2010/09/09 記述 )
 凡その位置について見当をつけたところまでは順調。しかし西側台地周辺は宅地化された路地、東側は交通量の多い片側一車線という事情により、駐車スペース探しに時間を浪費してしまいました。次に肝心のアクセスルートがなかなか見つかりません。それでも周囲を歩きまわって漸く遺構麓東側に設置された城跡の説明板をみつけたものの、今度は登り口が見当たりません。このようにして日没までの貴重な時間を約20分ほど浪費(汗)なお、正式なルートは東側の民家の庭先を迂回して、主郭小口への坂道を上るのが正しいのかもしれません。
 折しも徐々に1月の太陽は傾き、辺りは次第に夕闇につつまれ始めたことから、やむなく南側の空堀先端部を目指して直登。そうはいっても、その比高差は僅かに6m余り(爆)そのまま櫓台状の土塁に攀じ登り、小口付近の一部を除いて土塁に取り囲まれた主郭全体を俯瞰することに成功。
 遺構そのものについては、確かに評判通り良好な状態で現存していたことは厳然とした事実であります。しかし残念なのは、予想外の不法投棄された建材、廃材、家庭用大型ゴミ等々ゴミの数々が遺構の各所に点在していたこと。無論市街地内に所在することなどから、ある程度止むを得ない事情もあることは重々承知いたしておりますが。
 なお1月の夕方4時以降の撮影となってしまったために、竹林の中は森閑としASA調整していても画像全体が暗く沈んでおります。

主郭東側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭東側土塁(画像中央部は北東部の櫓台状地形を呈する)
( 2010/01/09 撮影 )


(注1) 「矢印と番号」は、およその撮影地点と方向を示しますがあくまでも大雑把なものに過ぎません。
(注2)なお、この「概念図」については「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」/1995/千葉県教育委員会)掲載の略測図等を基本に、現地での印象などを加味して作成しました。

佐津間城概念図 ⇒ 画像クリックで拡大します
訪城アルバム
大宮神社
空堀先端部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 大宮神社
 城域の南限を示すとされる台地南方に所在する大宮神社ですが、台地地形の残滓以外には城跡の形跡を思い浮かべるのは些か難しいものがありました。時間不足は否めず、折を見て再訪を期すべき城郭です。
凸2 空堀先端部
 西側を中心に構えられた空堀の先端部が主郭南東角付近で崖線の斜面へと消失する個所です。この部分だけを見てしまうと山城によく見られる堀切遺構にも見えます。画像右手の切岸は南側の櫓台基部。

主郭小口部分 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭西側土塁 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸3 主郭小口部分
 主郭南部に確認できる小口を郭内側から撮影をしたものですが、小口部分は主郭土塁の一部崩落の影響も少なからずあるように見受けられます。
凸4 主郭西側土塁
 画像右側の空堀との比高差は概ね4mから5mほどの急斜面が残されています。土塁上には櫓台と呼ぶにふさわしい地形が3か所ほど確認できます。

西側の空堀 ⇒ 画像クリックで拡大します
主郭内部 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸5 西側の空堀
 この画像部分での堀底からの比高差は画像左の郭内側で約5m、画像右側の外郭側で約4m弱、堀幅は上面で約15mほどを測ります。台地寄りの西側方面を意識した防御と見るべきかもしれません。
凸6 主郭内部
 主郭内部の郭面としての広さは南北約30m、東西22mほどで、空堀の規模に比してやや狭隘な印象があります。800平方メートルに満たない主郭内は、せいぜい数十人が籠れるかどうかという面積です。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 6」(1981/新人物往来社)・「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)
「改訂版 図説房総の城郭」(2006/千葉城郭研究会/国書刊行会)
→城の性格として、「村の城、或いは村落支配の拠点」といった見方を提示する一方で、「水陸交通の監視機能を担っていた可能性」を指摘している。

「関東地方の中世城館1埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
⇒「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書1」(1995/千葉県教育委員会)の復刻版
→城の歴史について、千葉氏系城郭との伝承・通説を示すとともに、「遺構の広がりから見て船舶航行上の監視所的な城郭から拠点支配の城郭に改変されたものと考えられる」との説を提起し、また、「各遺構に高度な技巧が見られることから、戦国期末まで使用していた可能性」についても示唆している。

■郷土史・歴史関係
「千葉県の歴史散歩」(2006/山川出版社)
「角川地名大辞典県12」(1984/角川書店)
「千葉県東葛飾郡誌」(1923/千葉県東葛飾郡教育会/復刻版)
→「鎌ヶ谷村佐津間字城山にあり、地は入谷津に突出する高台にして、田面より約五丈余、眼界東南に開け、背面は畑地山林数町連続す、城址は約5反歩二重の空堀今尚存し当時要害の状歴然たり...」と記されている。なお、この二重の空堀とはかつて北西部に所在していたとされている外郭部の空堀を含めて称しているものと考えられる。

「鎌ヶ谷市史 中巻」(1997/鎌ヶ谷市)
「東葛の中世城郭」(千野原靖方/2004/崙書房)
→相馬氏、岡田相馬氏に関する在地支配の変遷に詳しい。

「常総内海の中世」(千野原靖方/2007崙書房)
「利根川荒川事典」(1997/金井忠夫/近代文芸社)
「利根川の歴史」(2001/国書刊行会)
「戦国房総人名事典」(千野原靖方/2009/崙書房)

■史料

■その他
「ふさの国文化財ナビゲーション」HP
「奈良文化財研究所」遺跡データベース

・2010/09/09 HPアップ
・2019/06/22 画像ズレ補正
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