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1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月12日のブログ 本能寺址
所在地
 京都府京都市中京区蛸薬師通室町西入北側
歴史、人物、伝承

信長の庇護を受けた南蛮寺
 南蛮寺は天正4年(1576)に織田信長の庇護と、多くの信者や村井貞勝の尽力などにより当地姥柳町の北側に建立されたとされているキリスト教寺院である。南蛮寺の推定地については、柴謙太郎氏の論考(「京都南蛮寺の位置推定に依る二三史実の解明」−「歴史地理」52−4〜6−)が有力な定説とされている。
 当時南蛮寺に在留していたとされるルイス・フロイスは、その著「日本史」において、本能寺の変の様子を克明に描写しているが、同時代史料としての評価がある半面、当時の伝聞に基づく記述であることにも留意する必要がある。またフロイスはその書簡で、村井貞勝から南蛮寺の建立にあたり様々な便宜を供与された旨を記しているという。(以上については主に「信長の天下所司代」「現地解説板」などより引用した)
 信長を後継した秀吉は天正15年(1587)宣教師追放令を発布し、間もなく南蛮寺も破壊され以後この地に再興されることは無かった。

確認可能な遺構
 石柱、現地解説板
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年4月12日 13時30分から13時35分
訪城の記録 記念撮影

 埋もれる石柱
 信長が庇護した有名なイエスズ会のキリスト教寺院跡です。思いのほか石柱の所在が所在が分かりにくく、地元の方に伺っても不明だったのは想定の範囲...などと強がりを呟きつつ15分ばかりのロスタイム。近年石柱の周囲の様子が変わっている模様です。
 数年前にベストセラーとなった歴史小説(「信長の柩」)の鍵ともなった寺跡でもあります。
 本能寺と南蛮寺を繋ぐ地下道を構築するには余りに距離がありすぎ、あくまでもフィクションならではの発想のようです。
 蛸薬師通であることは間違いがないので、南北の通の名称から追っていきようやく確認に成功しました。然し肝心の石柱は自転車とバイクの陰に隠れて埋もれており下記のような画像となりました。
( 2011/04/01 記述)
南蛮寺跡
南蛮寺跡の石柱
( 2011年4月12日 撮影 )
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■郷土史・歴史
・「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「信長の天下所司代」(2009/谷口克広 著/中央公論社)
・「本能寺の変(新・歴史群像シリーズ)」(2007/学研)
・「本能寺の変」(2010/藤本正行 著/洋泉社)
・「考証織田信長事典」(2000/西ヶ谷恭弘/東京堂出版)
・「証言本能寺の変」(2010/藤田達生 著/八木書店)
・「織田信長総合事典」(1999/岡田正人 編著/雄山閣)
「完訳フロイス日本史3」(2000/ルイス・フロイス/中央公論社)

■その他
・「信長の棺」( 加藤 寛 著/日本経済新聞社/2005年)
 天正10年6月2日本能寺の変で織田信長は非業の死を遂げた。信長の事績を記した第一級の同時代資料として定評のある「信長公記」の著者太田牛一(通称を又介、諱は信定)を主人公とした信長の遺骸(遺骨)捜索をテーマとした歴史ミステリ小説。当時信長の遺骸を埋葬したとされる阿弥陀寺の清玉上人の出自、本能寺と南蛮寺を繋ぐ地下道、秀吉の本能寺の変への消極的加担の様子などが解き明かされている。ただし、あくまでもフィクションとしての作品である。
・各市町村公式HPなど
・⇒現地解説板

・2011年4月18日 HPアップ
・2019年6月26日 画像ズレ補正
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