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京都府京都市の城館索引へ戻る 蛤御門 蛤御門のバナー 蛤御門の弾痕?
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月12日のブログ 旧二条城
所在地
 京都府京都市上京区京都御苑3番地
歴史、人物、伝承

蛤御門の変
 元治元年(1864)7月19日、当時尊王攘夷派の急先鋒であった長州藩と公武合体派の会津・桑名・薩摩藩の間で発生した軍事衝突である。同日、軍事的に劣勢な長州藩が一方的に敗北したが、御所へ向けて発砲したことから朝敵の汚名をきせられ、長州追討礼が発布され第一次長州征伐の直接の原因ともなったといわれている。別名を禁門の変とも。
 長州藩では久坂玄瑞真木和泉などが死亡し、結果的に長州藩の攘夷派の変質(開国攘夷、倒幕)にも繋がった事件でもある。

確認可能な遺構
 解説板、蛤御門
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年4月12日 16時20分〜
訪城の記録 記念撮影

 弾の跡と思いたい...
 この日は本来は足利義昭邸の復元石垣遺構を探しに行ったのですが、終始分からず仕舞いのままでした。(※翌日確認済み) このため止むを得ず蛤御門へと移動して禁門の変の戦跡見学へと変更することにしました。
 蛤御門では、たしかに旧式銃と思われる弾痕らしき窪みが門扉や門柱のそこここに散見されました。しかし解説板の説明とはやや異なることから、100%銃弾の跡と言い切れないところがかなしくもありました。

 このあたりからボチボチ足元に黄色信号が灯り始めてしまい、次第に足を引きずるような歩き方になっていきました。またこの日の宿泊場所までの歩行距離は、合計にして約20kmに達していました。 こうした足元の痛みのという事情を背景に翌日の探訪スケジュールは大きく変更すことを余儀なくされました。 

( 2011/04/25 )記述
蛤御門全景 ⇒ 画像クリックで拡大します
蛤御門全景
( 2011年4月12日 撮影 )
訪城アルバム
現地解説板 ⇒ 画像クリックで拡大
蛤御門の弾痕? ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 現地解説板(画像1−1)
 蛤御門内に設置されている当該名称の由来について記された解説板ですが、歴史的に著名な事件の割には比較的あっさりと記述しています。
凸2 蛤御門の弾痕?(画像2−1)
 仮に弾痕であると仮定すると、凹み部分は深いものでも1センチ前後であることから、施条銃ではなく旧式の滑腔銃の弾痕なのかも知れません。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■郷土史・歴史
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「日本の歴史19」(1966/中央公論社)
■その他
「観光京都ナビ」
「現地解説板」

・2011年4月25日 HPアップ
・2019年6月27日 画像ズレ補正
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