凸蛤御門の変 元治元年(1864)7月19日、当時尊王攘夷派の急先鋒であった長州藩と公武合体派の会津・桑名・薩摩藩の間で発生した軍事衝突である。同日、軍事的に劣勢な長州藩が一方的に敗北したが、御所へ向けて発砲したことから朝敵の汚名をきせられ、長州追討礼が発布され第一次長州征伐の直接の原因ともなったといわれている。別名を禁門の変とも。 長州藩では久坂玄瑞、真木和泉などが死亡し、結果的に長州藩の攘夷派の変質(開国攘夷、倒幕)にも繋がった事件でもある。
凸 弾の跡と思いたい... この日は本来は足利義昭邸の復元石垣遺構を探しに行ったのですが、終始分からず仕舞いのままでした。(※翌日確認済み) このため止むを得ず蛤御門へと移動して禁門の変の戦跡見学へと変更することにしました。 蛤御門では、たしかに旧式銃と思われる弾痕らしき窪みが門扉や門柱のそこここに散見されました。しかし解説板の説明とはやや異なることから、100%銃弾の跡と言い切れないところがかなしくもありました。
このあたりからボチボチ足元に黄色信号が灯り始めてしまい、次第に足を引きずるような歩き方になっていきました。またこの日の宿泊場所までの歩行距離は、合計にして約20kmに達していました。 こうした足元の痛みのという事情を背景に翌日の探訪スケジュールは大きく変更すことを余儀なくされました。
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