京都府内の市町村別城館跡の目次へ
トップ頁へ戻る 京都府内の市町村別城館跡の目次へ 画像掲示板へ 「ほっつきブログ」へリンク 頁の最後へ移動
 素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。 お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。     
京都府京都市の城館索引へ戻る 旧二条城石柱 旧二条城のバナー 旧二条城復元石垣
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2011年4月12日のブログ  4月13日のブログ 二条御新造
所在地
 京都府京都市上京区下立売通室町角周辺一帯
歴史、人物、伝承

将軍足利義昭邸
 「山城名勝志」によると、武衛陣御所(現在も武衛陣町の地名が残されている)といい足利義輝の居所跡と同じとされる。(「新装版日本城郭辞典」より)現存する遺構は皆無であるが、部分的な発掘調査などから、現在の平安女学院を中心とした一帯であるとものと考えられている。
 「言継卿記」によれば、永禄12年(1569)正月に三好政康ら三好三人衆の軍勢が、将軍義昭の仮御所である本圀寺(ほんこくじ)を急襲した。幸いにして三好義継・奉公衆らにより撃退できたが、信長は義昭の居城として上記の義輝の居館を拡大・改修する二条城の造営を開始し、同年4月14日に義昭は同城に入城した。しかし繰返し信長に叛旗を翻した義昭は、天正元年(1573)4月に京都から追放され事実上室町幕府は終焉の時を迎えた。
 二条における城郭としては、この足利義昭御所(旧二条城)、二条御新造妙顕寺城聚楽第徳川家の二条城などがあり、特に二条御新造との関係では出版物によって一部混同された記述も散見されるので留意する必要があろう。

確認可能な遺構
 復元石垣、石碑、解説板
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2011年4月12日15時40分〜、同13日9時20分〜
訪城の記録 記念撮影

 2日がかりの訪問
 平安女学院北西の一角付近に石柱と解説板が所在しています。 当該解説によれば東は京都御苑の敷地の一部にかかるほど広大な規模を有していたようです。 少し前まではフェンス越しの御対面だったようですが、現在では画像のように改善されておりました。足利義昭邸の復元石垣遺構を探しに行ったのですが、終始分からず仕舞いのまま。このため 止むを得ず蛤御門へと移動し、「禁門の変」の戦跡見学へと変更しました。

 前日に続く連日の再訪で、今度は確実に発掘された石垣の復元遺構と対面。 下立売御門よりもひとつ南側の門跡である椹木口(さわらぎくち)の御苑側から見て向って右側の土塁部分に復元され、石柱に嵌め込まれた説明板も所在しておりました。遠方のためにそう何度も訪れることができない事情もあり、この結果には大満足でした。

( 2011/04/24 記述)
旧二条城 ⇒ 画像クリックで拡大します
旧二条城(平安女学院角)
( 2011年4月12日 撮影 )
訪城アルバム
現地解説板 ⇒ 画像クリックで拡大
復元石垣 ⇒ 画像クリックで拡大
凸1 現地解説板(画像1−1)
 平安女学院角の石柱奥に設置されている解説板で、原図は画像2−1の説明板に記されているものと同様です。約400m四方の方形をしていたものと推定されています。
凸2 復元石垣遺構(画像2−1)
 京都御苑の椹木口(さわらぎくち)内に復元されている復元された石垣遺構で、1976年の地下鉄建設に伴いその存在が確認されたもので、本来は南面していたものですが、復元に際しては東面方面に移設されています。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係資料
「日本の城ハンドブック」(2005/三省堂)※注記の「二条城小史」に一部二条御新造と混同した記述が見られる。
「日本の名城・古城事典」(1989/TBSブリタニカ)
「新装版日本城郭辞典」(鳥羽正雄 著/1995/東京堂出版)」※旧二条城の様子と経緯に関する記述が詳しい
「ビジュアルガイド日本の城」(2005/小学館)
「城郭みどころ事典」(2003/東京堂出版)
「近畿の城(探訪ブックス日本の城5)」(1989/小学館)※1976年当時の発掘の経緯と状況が記されている。

■郷土史・歴史
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「だれでも読める日本中世史年表」(2007/吉川弘文館)
「信長の天下所司代」(谷口克広 著/2009/中央公論社)
「京都の歴史が分かる事典」(2005/日本実業出版社)※「二条城」の項目に一部二条御新造と混同した記述がある。

■史料
「完訳フロイス日本史2」(2000/中公文庫)、「言継卿記」、「日本耶蘇会年報」、「安土日記」など
※当時この建設の様子を見聞したルイス・フロイスによると、三か所の町を収用し、1万5千人から2万5千人がその作業に従事したと伝え、石垣には石仏や墓石を転用し、吊り上げ橋を伴う二重堀に囲まれ、三か所の小口を有し、御所内には美しい中庭も所在したが、二、三年を要すると思われた工事を僅か70日間で完成させたという。

■その他
「京都観光ナビ」
「現地解説板」(平安女学院/京都御苑内)

・2011年4月24日 HPアップ
・2019年6月27日 画像ズレ補正
トップ頁へ 京都府内の市町村別城館跡の目次へ この頁の最上段へ移動