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茨城県竜ケ崎市の城館索引へ戻る 若柴城の台地 若柴城のバナー 主郭部の切岸
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2009/1/4のブログ
所在地
 茨城県龍ヶ崎市若柴町
歴史、人物、伝承

岡見氏の支城か
 近世に成立した史料によれば、戦国時代後期には土岐氏から養子に入った岡見越前守頼勝の居城であったとされている。頼勝は土岐治頼(はるより)の次男として生まれ足高岡見氏の養子となり、嫡子宗治に家督を譲った後は出家して伝喜(でんき)と号してこの若柴城に隠居したという。
 しかし天正16年(1588)3月に下妻の多賀谷氏との合戦において、足高城の落城と共に猿額山にて討死を遂げたといわれている。(「源姓岡見氏系図」、「土岐氏系図」より)

確認可能な遺構
 郭、空堀、切岸、腰郭、土塁
文化財指定
 なし
訪城年月日
 2009年1月4日 12時30分から13時00分
訪城の記録 記念撮影

 丘陵の尾根筋から南側の山腹にかけての斜面に占地し、その形体からは馴馬城の形状に似た印象もあります。また連続する郭の間を空堀と竪堀で区切るという比較的単純な構造のようにも見えます。
 しかし何といっても現状での残存している部分が、主郭を中心とした全体のごく一部分であるという制約から城跡の全体像が判然としません。ただし、この地域に多い舌状台地の地形を活用したタイプのものとは一線を画しているように思われました。 
( 2011/10/24  記述 )

若柴城の台地
若柴城の台地
( 2009/1/4 撮影 )
訪城アルバム
若柴城の切岸
主郭の土塁
凸1 若柴城の切岸
 目測で最大2.5mを測る主郭(約30m×約40m)の北西側の切岸です。北側には幼稚園の園庭が迫り、西側からは「土取り」が行われ、落城寸前のようにも。
凸2 主郭の土塁
 主郭南西部に認められる土塁状の地形で高さは0.6mほどを測りますが、余り明確な遺構であるとは言い難いものがありました。なお、画像の右端は腰郭状地形。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)※明治期に編纂された「新編常陸国誌」を引用し、天正年間に若柴氏が居城したものと記されているが、その出典は不明である。

■郷土史・歴史関係
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「龍ヶ崎市史 中世編」(1998/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史 中世資料編」(1993/龍ヶ崎市)※「源姓岡見氏系図」/「土岐氏系図」を収録
「龍ヶ崎市史中世資料編別編2 龍ヶ崎市の中世城郭」(1987/龍ヶ崎市)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。
「東国闘戦見聞私記」(1907初刊7/1997復刻/常野文献社)
 岡見頼勝の活躍が記されているが、軍記物としての性格上史料としての評価は低いとされている。
 天文23年から慶長(徳川氏支配初期)までの常総地域における合戦について、下野の戦国武将皆川広照と大道寺友山(⇒寛永16年生まれである後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫なので現実にはあり得ない)が物語った内容を纏めた一書を、江戸時代の講釈師である神田仁右衛門尉貞興志融軒(かんだ じんうえもん さだおき しゆうけん?)が、故あって譲渡されこれを40巻に編纂。さらに刊本の校訂者である吉原格斎の外祖父の門人である増田某から譲り受けたという、甚だ複雑怪奇な経緯が記されていることが示すように、当初における成立過程に大きな疑問を抱かざるを得ない。またその文体は些か異なるが、当該内容については「東国戦記実録」と概ね共通するものとなっている。

・2011/10/24 HPアップ
・2019/06/16 画像ズレ補正
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