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茨城県竜ケ崎市の城館索引へ戻る 馴馬城 馴馬城のバナー 堀切(空堀)
1歴史・伝承 2残存遺構 3訪城記録・記念撮影 4アルバム 5交通案内 6参考・引用資料 7更新記録
関連ページへのリンク  2008/12/16のブログ
所在地
 茨城県龍ヶ崎市馴馬町2507番地
歴史、人物、伝承

南北朝期の城跡とも
 馴馬の集落の南端部に南東方向にのびる細長い台地に占地していますが、後世の大がかりな地形改変などにより城跡全体の構造は分かりづらくなっています。
 南北朝時代のはじめに当時南朝方の拠点であった城は、暦応4年(1341)に「馴馬楯等引き退き候き」と記されているように、南朝方の戦線の後退が行われていました(※「北畠親房事書」より)
また、その3年後の康永3年3月4日大宝城から脱出した春日侍従顕国は、「馴馬沼田城」を占拠しここに兵を挙げましたが、常陸国宍戸荘の領主である宍戸安芸四郎(宍戸朝里)の軍勢により落城させられました。(※「鶴岡社務記録」)なお、春日顕国はその4日後再び大宝城に兵を挙げましたが、間もなく下総の結城直朝一族により捕縛されて4月に京都で斬首されました。
 その後戦国時代に入り、土岐原氏により再興され利用されていたものとも推定をされています。(「龍ヶ崎市史 中世編」より)

確認可能な遺構
 堀切、空堀、土橋、腰郭など
文化財指定
 1940年4月5日 茨城県指定史跡
訪城年月日
 2008年12月16日 12時20分から13時20分
訪城の記録 記念撮影

 事前の情報によれば目ぼしい遺構が少ないなどの事情により、ルートと所要時間の関係から本来は今回の訪城予定には含めておりませんでした。 しかし体調不良など諸々の事情が変わったために、市立資料館へ立寄ったついでに訪問しました。というよりも城跡と完全に隣接しているので立寄らないわけにもいかないという事情もありました。
 それにしては約60分という比較的長時間の滞在。せっかくなのでこの際は、散在している断片的な遺構等を全て踏査していたことによるものなのであります。なお、あわせて城跡西側に隣接する重要文化財の多宝塔も見学させていただきました。  

( 2011/10/11  記述 )

 ⇒ 画像クリックで現地解説板の画像へ
馴馬城の郭
( 2008/12/16 撮影 )
訪城アルバム
土橋(手前)と堀切
 ⇒ 画像クリックで拡大します
凸1 土橋(手前)と堀切■
 画像中央部が細長い台地を仕切る堀切状の空堀遺構で現状における城跡の中心部部分と想定されます。
 また、画像の手前部分は山王久保の谷に架かる土橋状の地形です。
凸2 腰郭
 南側の崖沿いに構築された腰郭で、訪城当時の記憶によれば左「1」の画像のうち右側の郭の下段部分に相当する筈です。その遺構の明瞭さなどからは、戦国期の改修等が感じられます。
交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸参考・引用資料
太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

■城郭関係
「日本城郭体系 4」(1981/新人物往来社)
「日本城郭全集 3」(大類 伸 監修/1967/人物往来社)

■郷土史・歴史関係
「茨城県の歴史散歩」(2005/山川出版社)
「茨城県の歴史」(1997/山川出版社)
「角川地名大辞典8茨城県」(1983/角川書店)
「龍ヶ崎市史 中世編」(1998/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史 中世資料編」(1993/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市史中世資料編別編2 龍ヶ崎市の中世城郭」(1987/龍ヶ崎市)
「龍ヶ崎市の文化財」(1991/龍ヶ崎市)
「茨城県遺跡地図」(2001/茨城県教育委員会)⇒県内全域を網羅、ただしA3版2分冊のために持ち運びに不便。

■その他
「龍ヶ崎市公式HP」
「現地解説板」

・2011/10/11 HPアップ
・2019/06/15 画像ズレ補正
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